むかしからの峠の名前そのままに、北から赤松トンネル・佐敷トンネル・津奈木トンネルていうた。
平坦になったていうもんの、今でもトラックはこの坂登るとに排気ガス撒き散らしよるし、九州一周駅伝競走で、三太郎越えいうたら最大の難所で、選手達ば苦しめてきた。
平成のいま、南九州自動車道が建設中で、これが出来れば三太郎越えなんちゅう感覚は無うなろうバッテン、それでも国道の三太郎トンネルは残って行くやろう。
一方。明治、大正、昭和と3代にわたって、九州の南北ばつなぐ基幹道路の役目ばしてきた旧国道はていうと、町道に格下げされて、旧津奈木隧道、旧佐敷隧道ともども、60年の功績は忘れ去られてしもうとる。
今回は旧国道に入り込んで、古かトンネルがどうなっとるか探検しようていう訳タイ。
八代から国道3号線ば南下して、田浦・湯浦と過ぎ、九州新幹線の下ばくぐった先から、国道と分かれ旧道に入る。対向車がおらんケンよかバッテン、離合がやっとかっとの峠道。勿論、センターラインなんてなか。カーブミラーがないところは怖かケン最徐行。舗装してあるとが奇跡て思わないかん。ぐねぐねと腸捻転ば起こしそうなカーブを登ること4km。
やっと津奈木トンネルの入口が見えてきた。
明治32年(1899)に工事開始して明治34年(1899)に竣功した津奈木隧道。煉瓦積みの美しかトンネルが山の中に、ポツンと取り残されとる。入り口のアーチ上にある隧道名の石額は、コケに被われてとうてい読めん。正面ウイングの煉瓦積みもコケで見えにくい。隧道内部は真っ暗、遠くに出口のアーチ形がほのかに見える。とてもこの中ばひとりで歩け、ていわれてもその気にはなれんやろう。
車でトンネルに突っ込む。真ん中あたりで止めて降りてみる。車のライトがアーチ型に積まれた煉瓦の壁ば丸う照らして不気味か。
「出たぁ」天井から水のしずくが、だまって落ちてきて首筋に入った。暗かバッテン、三脚立てる気はせんで、車に腕ば固定して、やっと写真一二枚撮って退散。
このトンネル、設計・施工はオランダ人技師ていうだけで、詳しいことは分かっとらん。アーチ状に積まれたトンネル内の煉瓦は、徳島県から旧田浦町(現芦北町)に移り住んだ瓦職人が製造したていう記録が残っとるゲナ。
煉瓦の大きさは、日本の標準210×100×60mmより、ちょっと小振りに見えたバッテン、くらくて気色悪うていちいち計ったりする気は起こらん。
トンネルの長さは211.6m。巾は5.5mで、車が離合できる巾ていうとは、すばらしい先見性。それに感心し、トンネルば包む木々の緑がきれいやった。
幽霊が出らんうちにと思うて、狭か曲がりくねった道ば、津奈木町の方へ下りていった。国道3号線が見えてほっとした途端、旧道に入ったときから出るまで1台の車にも出会わんやったとに気がついた。
平成14年(2002)8月 「旧津奈木隧道」が国登録の有形文化財になった。
トンネルの津奈木側には生い茂った緑のトンネルが続く。明治の赤いトンネルは夕陽をあびて、その存在ば主張しとった。
写真・上 トンネルの中は200mにわたって、赤煉瓦のアーチ。真ん中当たりは真っ暗で、ここばひとりで歩けいわれたら、ちょっと勇気がいる。
右・中 ポータルの両サイドには、文化財指定のプレートが立っとるけど、津奈木側(左)と芦北側(右)では形も建て方も違うのはなぜ ?
右・下 石額は右から「道随木奈津」て浮き彫りになっとるはずバッテン、苔むして読めんやった。
煉瓦は入口の壁が長辺と短辺ば一段づつ交互に積む「イギリス積み」
中の壁が長辺だけば千鳥に積む「長手積み」が使われとる。
入口の門柱とアーチ型の切石は重厚感があって素晴らしい。
ところで津奈木ていう地名の由来は?
景行天皇(第12代・西暦71〜130)が九州の熊襲ば征伐に来なったとき「船ばここにつなぎになった」ていうことから 「つなぎ」という名がついたとゲナ。
写真・上二枚 煉瓦積みと切石が貫禄の芦北側ポータル。この馬蹄形のデザインは津奈木側もいっしょ。