このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 九州のいちばん東端にある灯台         「大分県」の目次へ
  日豊海岸国定公園

 鶴御埼灯台(つるみさき とうだい)は、大分県佐伯市の鶴見半島の突端・鶴御崎に立っとる灯台。

 昭和56年(1981)3月25日に初点灯したて云うから比較的新しか灯台。
 九州の最東端・鶴見崎の海抜約200mの絶壁にある(離島も含めると、九州最東端の灯台は水ノ子島にある水ノ子島灯台ゲナ)

 ところが、昭和17年(1942)に主戦力のひとつやった丹賀砲台で実弾射撃の演習中に、なんと砲身の中で砲弾が爆発してしまうていう考えられん事故が発生し、丹賀砲台は多くの戦死者とともに壊滅的打撃ば受けてしもうた。

 戦争中のことやもん、陸軍はあわてて観測所のあった鶴御崎に15cmカノン砲4門ば装備した砲台ば築いた。

 近隣住民ば総動員した突貫工事の結果、わずか6ヶ月で「鶴御崎砲台」は完成したバッテン、米海軍の艦艇が豊予海峡ば通過することはなく終戦。「鶴御崎砲台」は一度も実戦ば経験することはなかった。

その後、占領軍によって武装解除された同砲台は長いあいだ放置されとったけど、昭和56年(1981)に鶴御崎に「鶴御埼灯台」が出来、平成元年(1989)には丹賀砲台跡地に「丹賀砲台園地」が出来たもんやケン、今は観光客が訪れるようになった。

 この灯台が建設されたとは、豊後水道の入口に突き出した鶴御崎が古うから軍事上の要衝にあたるもんやケン、日清戦争が始まったとば機に、明治27年(1894)海軍が望楼ば作った。

 そして、大正9年(1920)に旧日本陸軍は、太平洋から瀬戸内海に至る重要な海域やった豊予海峡ば守るため
「豊予要塞」の建設ば始めた。

 要塞建設計画に基づき、鶴御崎近くの丹賀に旧巡洋戦艦「伊吹」に搭載されとつた45口径30cmカノン砲2連装の砲塔1基ば設営し、鶴御崎にはその観測所ば建設した。

 昭和16年(1941)太平洋戦争の勃発直前に陸軍は緊急警報ば発令して同要塞は戦時体制に入った。

白亜のコンクリート造り鶴見崎灯台。

 現在、砲台の跡地ば含む灯台周辺は「ミュージアムパーク鶴御崎」として公園化されとる。

 ミュージアムパークちゃなんや ? 
 最近は何でも英語で名前ば付けたらよかて思うとるとか英語名が氾濫しとるバッテン、英語教育ば受けとらん年寄りにとっては「なんがなんかサッパリ分からん」 調べたら
「博物館のある公園」ゲナ。

 海軍の望楼やったとは改装されて「最東館」となり、富永一郎まんが館が設けられとった。

 もともと鶴御崎いうとは、どげなとこか ?
 大分県佐伯市鶴見半島の先端部にある九州最東端の岬。日豊海岸国定公園の一部となっとる。

 先端部は50mから200mの高さば持つ海食崖で、崖上が「ミュージアムパーク鶴御崎」として整備され、世界のつばき園やパノラマ展望ブリッジ等が設けられとる。

 高台にあるパノラマ展望ブリッジからは、鶴御埼灯台が眼下に見え、その先に広がる豊後水道ば見渡す絶景が楽しめる。

 さらに、豊後水道の沖合には水ノ子島灯台で有名な水ノ子島が浮かぶ。
 鶴御崎の近くにある水ノ子島灯台の吏員退息所は登録有形文化財に登録され、「豊後水道海事博物館」及び「渡り鳥館」になって公開されとる。

 灯台本体は白色のコンクリート造りで、塔の高さは14.5 m。海面からの灯火の高さは197 m。レンズ ば通してキセノン灯が8秒毎に閃光する。実効光度は410,000 cdで光の届く距離 23.0海里(約43kmは四国まで届く)ていう。

 鶴御崎の北西約15kmにある水ノ子島灯台(みずのこじまとうだい)は、豊後水道の中央に位置する無人島、水ノ子島にある石造の灯台。日本の灯台50選に選ばれており、Aランクの保存灯台のひとつでもある。離島の灯台としては日本一、石造の灯台としては島根県の出雲日御碕灯台に次いで日本で2番目の高さを有するとゲナ。

 なんでこの燈台が出来たかて云うと、日清戦争の時、広島県の呉にあった鎮守府ば母港とする艦隊が、豊後水道ば行ったり来たりする際に、水ノ子島が邪魔になって危なかことから建設され
た。         鶴見崎灯台の北東15kmにある水の子灯台。天気がよければかすかにみえる。

 この灯台の工事は灯台建設史上でも屈指の難工事で、完成までに4年という異例の長い日数がかかった。灯台の構造は、内側に煉瓦ば積み、その外側に徳山産の花崗岩ば積んだもんで、内部は8階建てになっとる。

 明治33年(1900) 着工。明治36年(1903) 竣工。明治37年(1904)3月20日 初点灯。
 昭和20年(1945)3月 太平洋戦争末期の米軍機による何回もの攻撃で、第1等レンズが破壊されたバッテン、昭和25年(1950)戦災復旧工事により、第3等大型レンズに付け替えられた。

 木下惠介監督、佐田啓二・高峰秀子主演の昭和32年(1957)の映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケが行われたことでも知られとった。

 ずーっと燈台守さんが常駐しとんなったバッテン、昭和61年(1986)に 完全自動化された。
 平成14年(2002年)には 沿岸灯台としては初めての波力発電と太陽光発電ば併用したハイブリッド電源システムに変わった。

 今、燈台は無人島で、定期航路もないため、水ノ子島へ渡るには漁船ばチャーターするるしかなか。

 この水ノ子島灯台の吏員休息所は、明治37年(1904)に完成したもので、5戸の住いがある大規模な煉瓦造りで、灯台の職員やらその家族が生活しとった。

 職員は交替で船に乗って灯台に渡り勤務しとったていう。

 完全自動化後は改装されて「豊後水道海事博物館」と「渡り鳥館」になっとる。

 平成10年(1998)登録有形文化財に指定された。

 →吏員休息所のトイレと居間

      「ミュージアムパーク鶴御崎」のパノラマ展望ブリッジから見おろした鶴見崎灯台。
       放置されたままの砲台跡の写真↑→
↑ 「ミュージアムパーク鶴御崎」の高台にある「パノラマ展望ブリッジ」からは海峡が一目で見渡せる。













←↓「豊後水道海事博物館」と「渡り鳥館」

 鶴御崎は、演歌歌手・鳥羽一郎の歌唱する「男の港」(1986年、作詞:穂積淳、結城忍、作曲:中村典正)の舞台としても知られとる。

 この曲は、当時の鶴見町観光協会からの依頼で書かれたもので、鳥羽の「男の港」は累計70万枚ば超える売上やったていう。

 板子一枚生命をはった
 男度胸の海が呼ぶ
 競う船出を送ってくれる
 ありがとう浜千鳥の群よ
 豊後鶴御崎(つるみざき) 男の港

 踊る銀鱗しぶきの華に
 親父ゆずりの腕がなる
 照らせ男のこの晴れ舞台
 ありがとう水の子の灯台
 豊後鶴御崎 男の港

 高くかかげた大漁旗を
 待っているだろう紅椿
 松浦港はもうすぐ近い
 ありがとう黒潮の幸よ
 豊後鶴御崎 男の港

男の港

 場所・大分県佐伯市鶴見大字丹賀浦女郎崎。福岡から九州自動車道〜大分自動車道ば走って、東九州自動車道の佐伯ICで下りる。「佐伯IC入り口信号」ば36号線へ左折。500mで国道217号線(佐伯弥生バイパス)へ左折。4kmの中江川渡ったら388号線へ右折。2kmで番匠川渡り「蛇崎」の信号ば左折。400mで堅田川渡ったらすぐに県道604号線へ左折。あと海岸線ば約15km走ると丹賀浦。さらに東へ海岸線ば走り続け、梶寄港の先で右折してひと峰越すと丹賀砲塔砲台跡から約3.5kmの鶴御崎燈台に着く。                   取材日 2008.9.11

待合室へ
 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください