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難渋する農民のため命ば賭けた水の橋 「熊本県」の目次へ | |
その日。嘉永7年(1854)7月29日。矢部手永の惣庄屋(そうじょうや)布田保之助(ふたやすのすけ)は、白装束に身ば包み、懐に短刀ば忍ばせて橋の中央に座った。石工頭も大工の棟梁も、切腹用の短刀ば懐にして保之助の横に並んだ。 橋の上ば流れ走った水は、今で云うたら493ヘクタール(ヤフードーム70個分)もある乾ききった白糸台地に、みるみる染みわたっていった。 | |
江戸時代後期(1800〜)、財政状況が悪うなった細川藩は、大規模な干拓やら新田開発ば奨励して作付け面積ば増やそうてしよつた。 それはなしかていうたら、台地ば造る固い阿蘇の凝灰岩はクサ、雨水の浸食が横方向じゃのうて縦方向に進むため、深か峡谷ば造っとるとタイ。 | |
導水路は、上流の笹原川から6kmも水路ば掘削して引いた。トンネルも5つ掘った。 右の図で説明すると、矢部の白糸台地いうとは、阿蘇山の噴火で噴き出した堆積物が、西ば流れる千滝川と東ば流れる笹原川に浸食されて台地になっとるとタイ。 それで保之助は34歳で惣庄屋となったっちゃが、耕地がありながら谷によって用水が得られないばっかりに、収穫が上げられない村落。 白糸台地より標高の高い、笹原川の取入口から水ば持ってきても、台地の手前で最大の難関が待っとる。台地の前に立ちはだかる川幅100m近い五老ヶ滝川ば越さないかん。保之助はここに水路橋ば架けることに決心した。 上・熊本城の「武者返し」ば参考にしたていう石組み 間もなく白糸村には、通潤橋の灌漑によって新田が開かれ、村は豊かになっていった。年貢もちゃんと納められるごとなつた。藩も禄高が増えて喜んだ。保之助が村ば通ると、家のなかにおるもんまで走り出て、ていねいに挨拶ばしたていう。 八勢目鑑橋の「のうかんさん」も、霊台橋の惣庄屋篠原善兵衛もそうやが、人の上にたった昔のリーダーは偉かった。 通潤橋はサイホンの原理で橋まで落とした水ば水圧で押し上げるっちゃケン、栓(川の上流側に2つ、下流側に1つ)ば抜いたら水が噴き出す。 「通潤橋」名前の由来 通潤橋は、はじめ「吹上台眼鑑橋」て呼ばれとったとバッテン、藩校「時習館」の教師やった「真野源之助」が「易損卦程伝」ていう本ににある「澤在山下其気上通潤及草木百物(サワハサンカニアリ ソノキウエニツウズ ウルオイハ ソウモク ヒャクブツニオヨブ)」ていう文章から採って「通潤橋」て命名しなったとゲナ。 | |
場所・熊本県山都町矢部。九州自動車道ば御船ICで下りて左折。国道445号線ば約30kmで矢部。松橋ICからだったら下りて右折。国道218号線ば真っ直ぐ約35km。矢部に入ると標識が案内する。 取材日 2005.4.15 | |
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