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難渋する農民のため命ば賭けた水の橋      「熊本県」の目次へ

 その日。嘉永7年(1854)7月29日。矢部手永の惣庄屋(そうじょうや)布田保之助(ふたやすのすけ)は、白装束に身ば包み、懐に短刀ば忍ばせて橋の中央に座った。石工頭も大工の棟梁も、切腹用の短刀ば懐にして保之助の横に並んだ。

 大勢の人の力で完成した水路橋が、もし万一うまくいかんやつたら、橋と運命ば共にしようていう覚悟やった。
正午キッカリ、石橋ば支える枠(支保工)が外された。石の重さで橋が締まってギギギーて泣いた。

 保之助の合図で水門が開かれたら、水は橋の上ば勢いよう流れた。橋は水の勢いにも耐えてびくともせんやった。
ツバば呑み込むとも忘れて、見とった人々の歓声が上がった。

 橋の上ば流れ走った水は、今で云うたら493ヘクタール(ヤフードーム70個分)もある乾ききった白糸台地に、みるみる染みわたっていった。
 「水ちゃこげん美しかったとか」
 長い間水が無うて、貧しく苦しいくらしに耐えた農民の目には、涙が溢れて止まらんやった。
 保之助52才。永年の苦労、1
年8ケ月の難工事の末。不可能ば可能にして通潤橋が完成、通水がついに成功した。

 江戸時代後期(1800〜)、財政状況が悪うなった細川藩は、大規模な干拓やら新田開発ば奨励して作付け面積ば増やそうてしよつた。

 特に、緑川やら菊池川上流域には、阿蘇山の火砕流ででけた外輪山麓の広か台地があったケン、目ばつけられとった。

 台地は広か平坦面ば持っとるケン、大きな耕作地ば確保できるとバッテン、そこい水ば引くとが大変やった。

 それはなしかていうたら、台地ば造る固い阿蘇の凝灰岩はクサ、雨水の浸食が横方向じゃのうて縦方向に進むため、深か峡谷ば造っとるとタイ。
 そやケン、台地のすぐそばに川は流れとっても、はるか下やケン、台地に水は引けん。

 導水路は、上流の笹原川から6kmも水路ば掘削して引いた。トンネルも5つ掘った。

 
橋は種山石工に頼るしかなか。保之助は霊台橋のアーチの大きさが限界て言い張る石工ば説得して、いよいよ工事がはじまった。石工は肥後内外から集められ、もちろん近隣の農民も総出で手伝うた。

 しかし、今度は、橋の上の水路ば何で造るか問題になった。木製の水路は、水圧ですぐ砕け散った。保之助は執念とも思える研究ば重ねて石ばくりぬき、特殊な漆喰で繋いだ水路ば考案した。
 実験してみたら、見事に水は石管の水路ば走って成功した。

 右の図で説明すると、矢部の白糸台地いうとは、阿蘇山の噴火で噴き出した堆積物が、西ば流れる千滝川と東ば流れる笹原川に浸食されて台地になっとるとタイ。

 しかも北は五老ケ滝川、南は緑川が浸蝕しとるもんやケン、孤立した台地になっとる訳。

 渓谷は20mから深いとこでは100m以上も落ち込んどるケン、そっから台地に水くみ上げることはでけん。

 保之助には早くに父を亡くしたていう悲しみがあった。父矢部手永の惣庄屋・布田市平次は、白糸台地の慢性的な水不足と飢饉で、ここの農民が年貢も納められずに苦しんどるとと、藩の板挟みに悩み、ついには自害して農民ば救うた。

それで保之助は34歳で惣庄屋となったっちゃが、耕地がありながら谷によって用水が得られないばっかりに、収穫が上げられない村落。
 水がほしか。農業の水が、そして飲み水が。

 それは、長い間の叶わぬ夢やった。父の無念ば晴らしたいていう強い思いもあった。

 白糸台地より標高の高い、笹原川の取入口から水ば持ってきても、台地の手前で最大の難関が待っとる。台地の前に立ちはだかる川幅100m近い五老ヶ滝川ば越さないかん。保之助はここに水路橋ば架けることに決心した。

 熊本には霊台橋ば完成させ、全国にその名が轟く種山石工がおる。保之助は石工の棟梁・宇市、丈八(後の橋本勘五郎)に相談した。話しば聞いて宇市、丈八達はびっくり、保之助が考える橋は、長さも高さも霊台橋より大きか。

 霊台橋は橋長が90m。高さ16m。五老ヶ滝川ば越そうちゃ川幅100m。高さ30m以上になる。
「自分たちあ霊台橋でさえ苦労して、やっとかっとやったっちゃケン、あれ以上のもんは造りきらん。しかも、今回のは水路橋。水の大きな圧力がかかる。とても、あたしたちゃあ、しきりまっせん」て断られた。

 資金集めも大変やった。矢部手永の蓄財に加え、私財はもちろんのこと、藩からも金ば借りた。なんとか資金的にはめどがついたもんの、石工がウンていう設計はなかなか決まらん。

 肥後の領内で、よか水路があるて聞けば検分に行った。そこにはサイフォンの原理ば使うた水路もあった。保之助は五老ヶ滝川のいちばん狭かとこば選んで、しかも橋の高さも下げて、取水口と白糸台地の高低差ば利用した「逆サイホン」の原理で台地に水ば上げるていう方法ば考えた。

上・熊本城の「武者返し」ば参考にしたていう石組み
右上・橋の上には導水管3本が通っとる。人も通れるけど手すりはなか。下ば覗いたらズーンとするバッテン、今まで一人も落ちたもんはおらんゲナ。
右・橋から直線で約3km上流にある「円形分水」
 昭和31年にでけた。今は笹原川から取水した灌漑用水が、いったんここで通潤橋へ70%、野尻地区へ30%て振り分けられよる。

 間もなく白糸村には、通潤橋の灌漑によって新田が開かれ、村は豊かになっていった。年貢もちゃんと納められるごとなつた。藩も禄高が増えて喜んだ。保之助が村ば通ると、家のなかにおるもんまで走り出て、ていねいに挨拶ばしたていう。

 この偉業により保之助は、明治天皇から明治6年(1873)、銀杯一組・絹一疋ば授けられた。 そしていまでも矢部の農民から神としてたたえられ、通潤橋のそばにある布田神社に祀られとる。

 橋の方はどうかて云うと、昭和35年(1960)に国指定の重要文化財に指定され、農林水産省の疏水百選にも選定されとって、生命の水ば渡した橋は、架橋150年を迎えても、堂々と深い谷間に虹のごと架かっとる。

 この大事業により、白糸台地にはおよそ100町歩の豊な水田が育った。通潤橋用水路は、現在でも約170ヘクタールに日夜水ば送り続け止むことがなか。

 橋の長さ 75.6m。橋の高さ 20.2m 。橋の幅 6.3m 。アーチの径 27.9m。石管の長さ 126.9m。
全水路延長は、なんと約46kmにもなるゲナ。

 八勢目鑑橋の「のうかんさん」も、霊台橋の惣庄屋篠原善兵衛もそうやが、人の上にたった昔のリーダーは偉かった。
 人のために橋は架けても、どっかの議員のごと、票のために要りもせんごたあ橋は架けとらん。

 ところで「手永」ていうとは、藩が農村ば束ねていく組織で村がいくつか集まったものて考えればヨカ。今で云うと「郡」にあたる。
 庄屋(しょうや)・名主(なぬし)いうとは、江戸時代の村役人のひとつで村の代表者タイ。そのなかで惣庄屋いうたら、いくつかの村、何人かの庄屋ば束ねるリーダー役やった。

 駅長のご先祖さんにも惣庄屋した人のおんなったバッテン、家には座敷牢まであって、治安の権限まで藩から与えられとったごたる。
 権限もあるバッテン、責任も重かったとやろう。井関ば作っても作っても洪水の度に壊されるもんやケン、とうとう工事の人柱に立ちなった。

 
左・通潤橋の下にある布田保之助の銅像
 下2枚・八朔まつりに繰り出す矢部の「造りもん」

 通潤橋はサイホンの原理で橋まで落とした水ば水圧で押し上げるっちゃケン、栓(川の上流側に2つ、下流側に1つ)ば抜いたら水が噴き出す。

 9月の八朔(はっさく)祭の時には見事な放水が見られるバッテン、これはもともと導水管ば掃除ばするために行うもんで、観光用じゃなかと。

「通潤橋」名前の由来
 通潤橋は、はじめ「吹上台眼鑑橋」て呼ばれとったとバッテン、藩校「時習館」の教師やった「真野源之助」が
「易損卦程伝」ていう本ににある「澤在山下其気上通潤及草木百物(サワハサンカニアリ ソノキウエニツウズ ウルオイハ ソウモク ヒャクブツニオヨブ)」ていう文章から採って「通潤橋」て命名しなったとゲナ。
 場所・熊本県山都町矢部。九州自動車道ば御船ICで下りて左折。国道445号線ば約30kmで矢部。松橋ICからだったら下りて右折。国道218号線ば真っ直ぐ約35km。矢部に入ると標識が案内する。    取材日 2005.4.15
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