そのうえ、陸軍芦屋基地からと海軍築城基地から零戦10機が緊急発進してきたもんやケン、小倉市上空ば離脱。
帰りしなに彼らは、たまたま晴れとった長崎に落としていったていう訳。小倉にとっては九死に一生バッテン、長崎にとっては悲劇やった。
この一発の兵器で、長崎市は当時の人口24万人のうち、約7万4千人が死亡、建物の約36%が全焼または全半壊したていう。
爆心地からの至近距離にあった浦上天主堂はクサ、原形も留めんごと破壊された。しかも、原爆投下時間にミサが行われとったもんやケン、その中におった神父さんを始め、信者の全員が死んでしまいなった。
もともと、この浦上地区は、長崎港の入り江が切れ込んどったケン深江浦て呼びよった。その浦の上にあった農村やケン「浦上」ていうた訳タイ。
キリスト教が始めて日本に伝来した永禄10年(1567)頃から、カトリック信者の多か土地やった。
天正12年(1584) にキリシタン大名の有馬晴信が、島原半島で龍造寺晴信と争うた「沖田畷の戦い」に勝ったとい感謝してイエスズ会に寄進したもんやケン、名実ともにキリシタンの村になったていう。
天正15年(1587)、豊臣秀吉が伴天連(宣教師)追放令ば出したとき、長崎の町とともに直轄領になった。
秀吉が死んで江戸幕府になってからも、引きつづき幕府の天領で、浦上四番崩れ(うらかみ よばんくずれ)ていわれるごと、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、大規模な隠れキリシタンへの弾圧事件が4回も起こっとる。
その「浦上四番崩れ」とは、慶応元年(1865)に大浦天主堂が完成したすぐの慶応3年(1867)プチジャン神父に 浦上村の村民たちが、隠れキリシタンとして信仰ば守り続けてきたことば告白し、大量に捕縛されて拷問ば受けた事件やった。
江戸幕府のキリスト教禁止政策ば引き継いだ明治政府は、村民たちば3400人もみーんな流罪にしたとバッテン、このことが諸外国の激しか非難ば受けたもんやケン、明治6年(1873)にキリシタン禁制は廃止されたていう。
259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認された画期的な歴史の1ページやった。
「浦上一番崩れ」は寛政2年(1790)から起こった信徒の取調べ事件。
「浦上二番崩れ」は天保10年(1839)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件。
「浦上三番崩れ」は安政3年(1856年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問ば受けた事件
こうしてみたら、浦上の信者は常に迫害され続けとったことになる。
浦上教会(うらかみきょうかい)は、半分近くまで減った信者が、禁制解消後に浦上の地へ戻って、明治12年(1879)に小さな聖堂ば築いたとが発端になっとる。
信仰の自由ば得た浦上の信者たちは、それから33年におよぶ奉仕で、大正15年に立派な天主堂ば完成させた。
信徒が一枚一枚て積み重ねた赤レンガ造りの教会は、当時、ロマネスク様式ては東洋一と言われとったとバッテン、昭和20年、冒頭に書いた原爆のため、8500人の信者とともに失われてしもうた。
浦上ではこの被爆のことば「浦上の5番崩れ」ていう。
バッテン、浦上村の5郷(馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷)は、馬込郷ば除いて全農民がキリシタンやったケン、その強か信仰が現在まで伝承されとるていえる。
昭和33年(1958)、被爆した天主堂は瓦礫などば撤去して整備され、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会などの要請で、被爆当時のまま仮保存されとった。
保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存ば決議したとバッテン、結局は破壊され、天主堂の壁の一部だけが近くの平和公園内に移設された。
なし「遺構が現地で全部保存されんやったとか」については、保存委員会が建て替える教会の代替え地まで準備するていうたとバッテン、「いまの天主堂の土地には、キリスト教迫害の歴史的な背景があり、移転は信仰上受け入れられん」ていう協会側の意思があったことがひとつ。
もうひとつは、当時の長崎市長田川務が、米国セントポール市と姉妹都市締結したいきがかりから、アメリカへの配慮ば優先して破壊撤去ば選択したていわれとる。それで旧天主堂の廃墟は除去されてしもうた。
爆心地付近の惨状ば後世に伝えることが出来んごとなったこと、またそれば残した広島の原爆ドームが、世界文化遺産に登録されたことなどから、「浦上も残しとけばよかったとい」て惜しむ声も多か。
現在の天主堂は昭和34年に、むかしと同じロマネスク式で再建された。
朝夕、アンゼラスの鐘の音ば響かせとった鐘楼の左塔のドームは、爆風で約35メートルも離れたとこまで吹き飛ばされた。原爆の威力のすさまじさが分かるケンいうて、そのまま現地に保存されとる。壊れたアンゼラスの鐘は、被爆マリア像とともに、浦上教会信徒会館2階に保管展示されとるケン、自由に見学が出来る。
右塔の鐘は奇跡的にも瓦礫の中から発堀され、 再建された浦上天主堂に取り付けられいまも現役。昔ながらの音ば響かせとる。
上と右・鼻は欠けたバッテン、焼け残った「使徒聖ヨハネ像」
下・指は欠けたけど、破壊されず残った「悲しみの聖母マリア像」
ともに旧浦上天主堂の南側入口にあったケン、原爆の直撃から逃れられた。
浦上天主堂の正面左手表庭に原爆で破壊した聖人の石像が並んどる。
どれも熱線で黒く焦げ、強烈な爆風の影響で鼻、指、頭部などが欠けて痛々しか。
右は聖セシリア像、中央はイエスの聖心像、左の像は頭が飛ばされとるケン、誰か分からん。
右上・こそーっと撮ってきた浦上教会の内部
左上・浦上の信徒たちが大浦の南蛮寺にプチジャン師ば訪ね、自分達の信仰を明らかにした後、お寺での葬儀ば拒んだためにキリシタンであることが明るみにでて、慶応4年(1868)から明治6年(1873)までの5年間に、名古屋以西の十万石以上の大名20藩に浦上の信徒が分散して流された。
浦上の信者はこの四番崩れのことば「旅」て呼んどった。 配流人員3384人、配流地での死者613人。1011人が転び(転宗し)、1900人が信仰ば守り抜いて帰郷した。転宗したもんも帰郷後信仰ば取り戻したていう。
この「旅」ば記念して建てられたとが、この信仰の碑。天主堂の前にある。
左・平和公園に移された天主堂の遺壁。原爆でやられたとき建物で残ったとは、僅かに回りの壁だけやったていう。
移築された側壁は南側にあった部分で、壁の上の石像はザベリオていわれとる。
サベリオいうたら、聖フランシスコ・サビエルのことタイ。
ザビエルは、天文18年(1549)に現在の鹿児島市祇園之洲に上陸し、日本での宣教ば始めた。祇園之洲には上陸記念碑がある。