筑豊の石炭は、江戸時代から製塩の燃料として使われとったバッテン、量としては微々たるもんやつた。
若松も、むかしは普通の漁村にすぎんやったっちゃが、明治維新以後、工業の発展とともに、石炭の需要が増えていき、石炭の積み出し港として急に発展していった。
鉄道が開通する前の石炭は「川ひらた(別名五平太船)」ていう船でクサ、遠賀川やら堀川ば下って若松港へ集められよった。一番多か時には「川ひらた」が7000隻もおって川ば行き来しよったゲナ。
そのうちい、船じゃあとうてい間尺に合わんごとなって、明治24年に筑豊興業鉄道が、直方ー若松間に鉄道ば開通させた。(いまの筑豊本線)
それ以来、石炭はどんどん鉄道で若松港に集められるごとなった。
全国各地へ送るとはどげんしたかていうと、若松港からは帆船で運んどった。
いま、若松駅はタダの終点バッテン、その当時ここはひろびろとしたヤード(若松港操車場)があって、蒸気機関車と石炭積んできた貨車がひしめいとった。
若松南海岸の岸壁は当時の石造りで、通りには明治から昭和20年代にかけての繁栄ばしのばせる建物がいくつもある。
正面のレトロな洋館は、三菱合資会社の若松支社やった建築物。
貯炭場には石炭が山のごと積まれとって、洞海湾に入ってくる大型船に、この若松港南岸壁から、小舟で運んで積みかえよったと。
そこで活躍しょったとが「ごんぞう」タイ。
一時は数千人からの「ごんぞう」がおって、全国からも仕事求めてどんどん若松にやってきよったゲナ。
最盛期の若松には、映画館やら芝居小屋もあって、飲み屋のねえちゃん達も大勢おってクサ、そらあ、たいした賑わいやったらしかバイ。なんせ、そん頃の石炭は「黒ダイヤ」て呼ばれ、石炭景気で若松は沸いとった。
「ごんぞう」いうたら、沖の本船に石炭ば積み込む仕事ばしよった人達のこっタイ。「ごんぞう」または「ごんぞ」ていうた。貯炭場から船まで運ぶとが陸(おか)仲仕。貯炭場の石炭ば、ばいすけ(籠)にいれる入鍬(いれくわ)ていうとは女仲仕の仕事やった。
なし「ごんぞう」いうかていえば、権蔵ていう名の力持ちで人気もんの沖仲仕がおったケン、て、いう説と、布で編んだ草鞋のことば「ごんず」いいよってクサ、それば履いて仕事しよったケン、て、いう説とふたぁつある。
「ごんぞう」には、荷役請け負いの組に所属しとる「部屋仲仕」と、今でいえばフリーの「わたりごんぞう」があって、正規のごんぞうは甲種鑑札ば、それ以外のごんぞうは、乙種鑑札ば持っとった。
組は代表の小頭いうとが1人。現場責任者の助役ていうとが2人。助役はボースンて呼ばれとったゲナ。 ボースンいうたら、船の甲板長のことやケン、仲仕にしてみれば洒落た名前やったとったとねえ。 この「ごんぞう小屋」 明治34年(1901)にでけたときは、若松〜戸畑ば結ぶ洞海湾渡船の発着場やったとバッテン、明治37年(1904)頃から、昭和40年(1965)頃までは、ごんぞうの詰め所として、仕事待ちや休憩に使われとった。
若松出身の小説家火野葦平も、オヤジの玉井金五郎が「玉井組」ていう仲仕の組ば持っとったケン、一時は石炭仲仕の親方ばしょったゲナ。
「飲んだくれで、喧嘩太郎の荒くれバッテン、ひとつの荷役ば立派にしてのけるとが、彼らの名誉で誇り。そのためには、計算度外視、自分は損しても仕事だけはちゃんとして、お得意に迷惑だけはかけん。が自慢やった」てある本に書いたことがある。
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