木造二階建、瓦の数は、直接雨ば受ける部分だけで約27,000枚、これに鬼瓦やノシ瓦を含めたら全部で約33,000枚もあるていう。瓦の総重量だけで約78トンにもなるとゲナ。
一見すると和風建築に見えるバッテン、実は、桁から下が伝統工法。桁から上(小屋組)は洋式工法ていう、和洋折衷の建築技法が使われとって、これが八千代座の特徴になっとると。
客席は柱の数ば少うして、舞台ば見やすうするために、小屋組みはトラス工法で、2階席ば支えとる柱には鉄の鋼管が使われとるとゲナ。
左・木造二階建て。壁の漆喰が美しか。
桟敷に傾斜ばつけ、客席全体ば後ろにいくほど高うして、後ろからでも舞台がよう見えるように工夫がされとった。現在の劇場では当たり前のことバッテン、当時の芝居小屋としては、大変珍しかったらしい。上海にまで情報収集しに行って、長所ば取り入れなったけんやろう。
ぶどう棚やら天井広告、花道、「いろは」から始まる桟敷席に桝席、奈落など歌舞伎小屋として必要なもんは全部満たしとるていう。
ぶどう棚いうたら、歌舞伎の演目の中で役者の動きに合わせて、裏方がブドウ棚の上ば歩きながら客席に紙吹雪ば降らしたり、天井からちょうちん・暗幕などば吊るすことにも使われる仕掛けタイ。
80年以上も前に作られとるとい、廻り舞台やスッポンなど、現在でもチャーンと機能しとるいうとが凄か。
こけら落としは明治44年1月で、歌舞伎の松嶋屋一座の総勢91人による興業で幕が上がった。
大正から昭和初期にかけて、松井須磨子、岡田嘉子、長谷川一夫、片岡千恵蔵ていう当代一流の芸能人が来演して、八千代座は大賑わいやったていう。
ところが、昭和40年代になると庶民の娯楽が多様化したもんやケン、八千代座は時代の流れの中に取り残されていく。休演のため閉鎖された状態が続き、芝居小屋は老朽化していった。
朽ちかけていく八千代座に一番心ば痛めたとは、華やかだった頃ば知っとるお年寄り達やった。老人会は「瓦一枚運動」ばはじめて募金ば募り、5万枚の屋根瓦ば修復した。この運動に刺激ば受けた若者も、復興へ向けての様々な活動ば開始するごとなったていわれとる。
その結果が、昭和63年、地方の芝居小屋として初めての重要文化財指定に繋がっていった、ていうことになる。
上右・案内人さんによると、二階桟敷のこの場所が、舞台も見下ろせて、花道の七三でミエば切る役者も正面に見えて、八千代座の特等席やったゲナ。花道の桟敷には玉三郎の衣装が展示してあった。
平成2年から市民の手づくりで行われた「坂東玉三郎舞踊公演」では、明治の芝居小屋が創り出す空間が、華やかに舞う玉三郎にぴったりで、観客はうっとりさせられ大成功。
この公演の成功が全国に報道されて、八千代座の名前ば広めることになったとタイ。
これの仕掛け人は、古閑直子さん。山鹿市長6期、県議3期を務めた故古閑一夫さんの長女タイ。
八千代座の窮状ば訴え、地方都市の発展ば願う手紙の、熱い言葉に玉三郎が動かされ、話はトントン拍子に進んで、11月の初公演が実現したていう訳やった。
3日から3日間、演目は「夕霧」と「保名」などやったゲナ。全国から8.843通の入場券購入の申し込みが殺到して、6回の公演の入場者ば抽選で決めるほどの大当たりやったていう。
今でも、八千代座だけでなうて山鹿市にとっても、玉三郎は大恩人て感謝しとんなる。2008年も11月に公演があって、舞台で使うた衣装なども展示してあった。
八千代座は、平成8年からは平成の大修復と復元が始まり平成13年完了した。
実際に行ってみての八千代座は、大衆演芸の建てもんていうこともあろうバッテン、重要文化財ていう臭さがなか。運営しとる会社の考えもあろうし、案内人さんの個性もあろうけど、その気さくさがよか。
「どこでも見て下さい。触って下さい。写真も撮ってあげましょう」て乗せられて、花道ば「たたら踏んで」みたり、舞台で見得きってみたり。520円の案内付き見学料で、太平楽楽しませてもろうた。
勿体ぶって「見せてやるぞ」の国宝やら、近づきもされん重要文化財ばっかししか見とらんケン、八千代座はなんかホッとする重要文化財やった。
上・八千代座の向えにある資料館「夢小蔵」には、これまで出演した芸能人がサインした木札がいっぱい掛かっとる。
中・揚げ幕に染められた紋は「ヨ」の回りば、8個の「チ」が囲んで八千代ば現しとると。そういえば、福岡市の市章も「フ」が9個で「福」ばデザインされとうとやった。
下・いまでいう切符売りばの窓口。ここで「木戸銭(入場料)」ば払うて「木戸口」から入りよった。
上・そんとき復元された天井広告の原版が資料館「夢小蔵」に保存されとった。このなかには今も営業続けとる店が何軒か残っとるとゲナ。八千代座がでけた時からすれば、100年近く続いとることになる。
八千代座の奈落
左・回り舞台の装置。この梁を人力で押して回した。
右・花道下の通路。早変わりのときには、役者がここば駆け抜けて、揚げ幕の方に回っていった。
八千代座の楽屋
左右・明かりとりは北側の障子窓と裸電球。座長クラスの楽屋は別にあった。
平成の大改修で楽屋全体は別棟に移動したケンここは文化財としての見学用。
左上・花道。七三にせり上げの「スッポン」がある。
左下・二階桟敷。天井のシャンデリアには明治のランプがいくつかそのまま残っとる。
右上・一階の桟敷から見上げた二階桟敷と天井広告。
右下・一階桟敷のいちばん奥。桟敷に傾斜がつけてある。
八千代座公演の歴史
明治 こけら落しの歌舞伎から始まり、活動写真も盛んやった。
大正 大正になると浪曲(浪花節)の公演も多くなった。
大正6年に来演した芸術座トルストイの「復活」は山鹿の人々に強烈な印象ば与ええ、松井須磨子が劇中で歌ったカチューシャの歌は、山鹿じゅうで歌われたていうぐらいに大流行した。
少女歌舞伎も大人気やった。
昭和 昭和になったら、演説会、新派劇と様々に利用された。
珍しかもんでは映画と劇ば一緒にした連鎖劇も出てきた。
変わったところでは柔道、相撲、ボクシングの試合もあった。
戦後は、新しか音楽のコンサートも登場した。
福岡フィルや辻久子のバイオリンリサイタル、谷桃子のバレエ,淡谷のり子、東京混声合唱団などなどなど・・・
昭和30年代は映画が主流になり映画館として活躍した。
八千代座は、明治、大正、昭和時代の芸能の歴史ば反映しとるていえる。地方都市に始終一貫して芸能文化ば贈り続けた意味でも貴重やった。