トップ・側廊の正面に立つ「悲しみのマリア」はいっぱいの花で飾られとんなった。
上左・二階から見た身廊とこうもり天井。
上・生月の空は青かったバッテン、悲しか色やった。
白亜やった教会もちょっとねずみ色に見えた。
(電線は消去)
また、側廊に立つ「悲しみのマリア像」はほかでは見られんくらい、美しゅうて悲しか表情ばしとんなる。
このマリア見るだけで、生月まで行く値打ちがある。
よう見たらマリア像の胸に7本の剣が刺さっとった。これは「聖母マリアの7つの悲しみ」ば表しとるとゲナ。
「聖母マリアの7つの悲しみ」ていうとは
第1留 聖母がエルサレムで、シメオンていう老人から、幼児イエスの受難ば預言され、マリアの心も剣で貫かれたごと痛んだ。
第2留 聖母がヘロデ王の出した「幼児皆殺し令」から逃げるため、夫ヨセフともにエジプトへ避難したこと。
第3留 聖母が12歳になったイエスばエルサレムで3日間見失うたこと。
第4留 聖母が十字架ば背負わされ、ゴルゴダの丘へ連れられていかれるイエスば見たこと。
第5留 聖母が十字架にかけられたイエスの足元に立ったこと。
第6留 聖母が息絶えて十字架から降ろされたイエスの亡骸ば抱いたこと。
第7留 イエスが埋葬されたこと。
ガスパル様 小さな島の受難の歴史。
1550年の後半、平戸島西岸と生月島ば支配しとった松浦藩の重臣、籠手田安経(こてだ やすつね)は、キリシタンに入信しドン・アントニオていう洗礼名まで持っとった。そやケンここらでは、ほとんどの住民がキリシタンやった。
慶長18年(1613)の禁教令で、全てのキリスト教宣教師は国外追放。布教と関係が深かったポルトガル・スペインとの貿易は制限され、最終的には鎖国によって日本への来航は禁止された。
藩主松浦鎮信は生月島ば直轄領としてキリシタン弾圧ば始めた。その手始めに籠手田の後、信徒ば指導しよった西 玄可(洗礼名ガスパル)とその家族ば捕まえて、慶長14年(1609)にバッサリ処刑した。
西 玄可の処刑が行われた場所は、通称「黒瀬の辻」て呼ばれとった場所で、いまは信徒が建てた大きな記念碑が立つ公園になっとる。
黒瀬とはクルスから来とるていう説もあり、森の中にある古い積石墓がガスパル様の墓といわれとった。昔は「ガスパル様の松」て呼ばれる大松があったとゲナ。
山田教会の祭壇中央にある十字架は、ガスパル西玄可の墓から生えた、この松で作ってあるていう。
だんじく様 生月島はまさに殉教の聖地でクサ、悲しか話しのいくらでも残っとる
茶屋のジサンバサン(壱部在)
茶屋のジサンバサンは、茶売りに化けてきた役人に、家の中の御神体ば見つけられて処刑されなった。白山神社の上にジサンバサンの屋敷跡ていわれる場所があって、大きなバクチノキが生えとった。
焼山(堺目)
山は布教時代に教会堂が建っとった場所で、セミナリオも一時置かれとったらしか。
焼山ていう地名の由来は、切り捨てたキリシタンば穴に放り込んで焼いたけんゲナ。いまは木々に覆われた丘になっとって、中に堺目の信徒が行事ばおこなう御堂が建っとった。
幸四郎様(堺目)
地元の伝承では、幸四郎様はパブロー様ても言われ、もとはキリシタン弾圧のために派遣されてきた役人やった。
バッテン、生月に来た途端、急に失明しなったもんやケン、キリシタンの信徒たちが可哀想に思うて、一生懸命に看護したところ、奇跡的に回復して見えるごとなったゲナ。それに感謝して自分も信徒になんなったとバッテン、最後には捕らえられ殉教しなったていう。
幸四郎山て呼ばれる場所が聖地になっとって、昭和の初めに枯れるまでは松の大木が鬱蒼と茂ってとったゲナ。このなかに履物ば履いて入ったり、たきぎなどば持ち帰ったりしてはならなんて云われとる。
だんじく様(山田)
弥市兵衛と妻のマリア、息子のジュアンが、キリシタン狩りば逃れて、島の西南海岸にあるダンジクていう竹の茂みの中に隠れとった。
バッテン、子供が海岸に出て遊んどるとば、船で捜しに来た役人に見つかり、家族全員が処刑されてしもうた。
1月16日が命日やが、海から拝んだら海がシケるゲナ。
生月島の周回道路に「だんじく様」て標識の立っとったケン、物好きに立ち寄ったら、崖の上から急な坂ば海岸まで下りていかないかんやった。行きかけたもんやケン、戻るとはシャクで下の海岸までとうとう下りたバッテン、帰りは大変タイ。ハァハァいうて、元の所に上がって来たら、高度計付きの時計が75mば指しとった。
急なガケば海岸まで下りてくると、信者の家族が隠れとった「だんじく様」の聖地がある。写真右側のヤブの中に隠れとんなったゲナ。ダンジクいうとは「段竹」いうて海岸によう生えると背の高っか笹タイ。