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迫害に耐えた信者と、哀しく美しかマリア           「長崎県」の目次へ

 明治6年(1873)キリシタン禁制の高札が撤廃されたらクサ、早速、フランス人宣教師ペルー神父は、日本人に変装して生月に渡り再布教に動き出しなつたゲナ。

 そうしたらどうじゃろかい、それまで隠れキリシタンやった人たちがどんどん出てきなって、生月のカトリック信仰が復活したていう。

 初めは民家ば利用してお祈りしよったとげなバッテン、明治42年(1909)には、マタラ神父の指導で鉄川与助の請負による教会堂の建設が始まった。

 信徒の労働奉仕もあって、大正元年(1912)に出来上がったとが、ロマネスク様式のいまもある山田教会やった。

 建物は、煉瓦造りで切妻の屋根は瓦葺き。内部は身廊(真ん中の部屋)と左右の側廊(両端の部屋)の三廊式で、信徒席が3.5間、内陣が1.5間あった。

 天井は俗にコウモリ天井ても呼ばれるリブ・ヴォルト式で、アーチ材の組み合わせが美しか。

 もとももと鐘楼はなしで、玄関上の軒先に瓦が載り、下に「天主堂」ていう銘板があっただけやったゲナ。

 そのうちに信徒が増えたもんやケン、昭和45年には玄関側ば1間増築し、増築部分の上に鐘楼ば設けたていう。

 祭壇の壁に描かれたレリーフは「殉教」

 身廊の壁にある蝶や魚の模様全部が、たまがったことに膨大な本物の蝶の羽で造られとった。  

トップ・側廊の正面に立つ「悲しみのマリア」はいっぱいの花で飾られとんなった。
上左・二階から見た身廊とこうもり天井。
上・生月の空は青かったバッテン、悲しか色やった。
 白亜やった教会もちょっとねずみ色に見えた。
 (電線は消去)

 また、側廊に立つ「悲しみのマリア像」はほかでは見られんくらい、美しゅうて悲しか表情ばしとんなる。
 このマリア見るだけで、生月まで行く値打ちがある。

 よう見たらマリア像の胸に7本の剣が刺さっとった。これは「聖母マリアの7つの悲しみ」ば表しとるとゲナ。

「聖母マリアの7つの悲しみ」ていうとは

 第1留 聖母がエルサレムで、シメオンていう老人から、幼児イエスの受難ば預言され、マリアの心も剣で貫かれたごと痛んだ。

 第2留 聖母がヘロデ王の出した「幼児皆殺し令」から逃げるため、夫ヨセフともにエジプトへ避難したこと。

 第3留 聖母が12歳になったイエスばエルサレムで3日間見失うたこと。

第4留 聖母が十字架ば背負わされ、ゴルゴダの丘へ連れられていかれるイエスば見たこと。

第5留 聖母が十字架にかけられたイエスの足元に立ったこと。

第6留 聖母が息絶えて十字架から降ろされたイエスの亡骸ば抱いたこと。
第7留 イエスが埋葬されたこと。

 ガスパル様  小さな島の受難の歴史。

 1550年の後半、平戸島西岸と生月島ば支配しとった松浦藩の重臣、籠手田安経(こてだ やすつね)は、キリシタンに入信しドン・アントニオていう洗礼名まで持っとった。そやケンここらでは、ほとんどの住民がキリシタンやった。

 慶長18年(1613)の禁教令で、全てのキリスト教宣教師は国外追放。布教と関係が深かったポルトガル・スペインとの貿易は制限され、最終的には鎖国によって日本への来航は禁止された。

 藩主松浦鎮信は生月島ば直轄領としてキリシタン弾圧ば始めた。その手始めに籠手田の後、信徒ば指導しよった西 玄可(洗礼名ガスパル)とその家族ば捕まえて、慶長14年(1609)にバッサリ処刑した。

 西 玄可の処刑が行われた場所は、通称「黒瀬の辻」て呼ばれとった場所で、いまは信徒が建てた大きな記念碑が立つ公園になっとる。

 黒瀬とはクルスから来とるていう説もあり、森の中にある古い積石墓がガスパル様の墓といわれとった。昔は「ガスパル様の松」て呼ばれる大松があったとゲナ。

 山田教会の祭壇中央にある十字架は、ガスパル西玄可の墓から生えた、この松で作ってあるていう。

 だんじく様  生月島はまさに殉教の聖地でクサ、悲しか話しのいくらでも残っとる

茶屋のジサンバサン(壱部在)
茶屋のジサンバサンは、茶売りに化けてきた役人に、家の中の御神体ば見つけられて処刑されなった。白山神社の上にジサンバサンの屋敷跡ていわれる場所があって、大きなバクチノキが生えとった。

焼山(堺目)
 山は布教時代に教会堂が建っとった場所で、セミナリオも一時置かれとったらしか。
 焼山ていう地名の由来は、切り捨てたキリシタンば穴に放り込んで焼いたけんゲナ。いまは木々に覆われた丘になっとって、中に堺目の信徒が行事ばおこなう御堂が建っとった。

幸四郎様(堺目)
 地元の伝承では、幸四郎様はパブロー様ても言われ、もとはキリシタン弾圧のために派遣されてきた役人やった。
 バッテン、生月に来た途端、急に失明しなったもんやケン、キリシタンの信徒たちが可哀想に思うて、一生懸命に看護したところ、奇跡的に回復して見えるごとなったゲナ。それに感謝して自分も信徒になんなったとバッテン、最後には捕らえられ殉教しなったていう。
 幸四郎山て呼ばれる場所が聖地になっとって、昭和の初めに枯れるまでは松の大木が鬱蒼と茂ってとったゲナ。このなかに履物ば履いて入ったり、たきぎなどば持ち帰ったりしてはならなんて云われとる。

だんじく様(山田)
 弥市兵衛と妻のマリア、息子のジュアンが、キリシタン狩りば逃れて、島の西南海岸にあるダンジクていう竹の茂みの中に隠れとった。
 バッテン、子供が海岸に出て遊んどるとば、船で捜しに来た役人に見つかり、家族全員が処刑されてしもうた。
1月16日が命日やが、海から拝んだら海がシケるゲナ。

 生月島の周回道路に「だんじく様」て標識の立っとったケン、物好きに立ち寄ったら、崖の上から急な坂ば海岸まで下りていかないかんやった。行きかけたもんやケン、戻るとはシャクで下の海岸までとうとう下りたバッテン、帰りは大変タイ。ハァハァいうて、元の所に上がって来たら、高度計付きの時計が75mば指しとった。

急なガケば海岸まで下りてくると、信者の家族が隠れとった「だんじく様」の聖地がある。写真右側のヤブの中に隠れとんなったゲナ。ダンジクいうとは「段竹」いうて海岸によう生えると背の高っか笹タイ。

 場所・平戸市生月町山田免。生月大橋ば渡ったら県道42号線を直進。1kmで道なりに左へ、200mで右への案内板がある。さらに500m登っていくと県道と分かれ左への案内板がある。600mで尖塔がみえる。  取材日 2008.04.11

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