このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

日向往還の難所に架けた、「のうかんさん」の橋    「熊本県」の目次へ
県指定の重要文化財

 

 江戸時代の後半、ここは熊本から宮崎の延岡へ抜ける「日向往還(ひゅうがおうかん)」て呼ばれた大事な道路やった。今で云うなら国道タイ。

 ところが八勢川の両岸は切り立った崖で「八勢の谷わたり」て怖れられた難所やった。

 阿蘇外輪に降った雨は、渓谷が狭かもんやケン、一挙に川が増水して、よう旅人や馬が犠牲になりよったゲナ。

 ここに架かっとった木製の八勢橋も、大雨のたんびに流されて、村人達はしゅっちゅう架け替えの使役に苦しんどった。

 それば見かねたとが、御船で萬屋(よろずや)ていう酒蔵(さかぐら)ばしよった林田能寛ていう人タイ。

 みんなから「のうかん」さんて呼ばれとんなった。「のうかん」さんな、御船川の水運ば利用してクサ、貿易でも儲かっとんなったと。

 御船町は、日向往還の川港として発展した町やったケン、御船川の両岸には町が広がっとった。

左・朝の八勢目鑑橋。時代劇に出てくるごたあ旅人が向こうから歩いてきそう。

 毎年のごと、流された橋ばかけ直さないかん八勢・上野地区の人々の苦しみやら辛(つら)さ。橋が流されて何日も足止めされてしまう旅人たちの様子ば見とって、「のうかん」さんなあ「自分のお金ば全部使うてでも、八勢に石橋ば架けたか」て思うようになんなった。

 そこで、総庄屋(そうじょうや)の光永平蔵さんに相談に行き、ふたりで力ば合わせて架けなったとが、この八勢目鑑橋(やせめがねばし)タイ。

 「のうかん」さんなあ、御船に「御船川目鑑橋」ば架けたときにも出資しとんなったケン、頑丈な石橋が地域にもたらす恩恵の大きさば身をもって知っとんなったとよ。

 橋は、安政2年(1855)3月。着工からわずか4ヶ月で完成した。工事は肥後の石工で有名な橋本勘五郎の兄弟達、種山村の宇助・甚平やった。 橋は、長さ62.0m 橋幅4.0m  アーチ経14.5mで県下では最長。

 石はそこらから切り出して使い、切り出した跡は日向往還ば広げて、石畳の道も作った。いまも橋に続いて、160段、500mのこの石畳は残っとる。

 工期が4ケ月ていうとが、凄か。
 「のうかん」さんの熱意に村人達もみんなで応援したとやろう。

 完成したとき人々は、「のうかんさんの石橋がでけた」云うて喜んだゲナ。


左・遙か彼方の峠まで、いまに残る石畳の道
下・満開の桜に朝の日がスポットであたる。

上・八勢川ば渡る八勢目鑑橋と、その付け根に巾1mくらいの東上野井手の水路と、その水路がまたぐ水路橋と、3つつなげててあるとがまたすごか。
上・八勢目鑑橋ば渡った右手にあるこの水路橋は、八勢目鑑橋よりも40年ほど前(1814年)、田畑の灌漑用水路として完成しとったらしい。
左・八勢目鑑橋は、いま人だけしか渡さず、直ぐ横にコンクリート橋が架かっとる。
上・この坂ば登り詰めた旧日向街道の東上野地区は、熊本城から丁度六里(24km)あったケン、むかしは楠ば植えて「六里木」て云いよったゲナ。その歴史ば残すため、2006年に「六里木跡の碑」ていうとがでけた。
 場所・熊本県御船町。福岡からは九州高速道を御船ICで降りる。降りたら国道445を左折して、約3kmでまた左折、御船の町中ば抜けたら、山道となる。軍見坂ていう坂ば越して、下ると上野ていう部落になり、左手に上野小学校がある。右に茶屋本簡易郵便局ば見たら、二つめの道を右折、これが旧日向往還で八勢目鑑橋。 取材日 2007.4.9〜4.26
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