干満の差が平均で5〜6メートルもある遠浅の干潟からは、貝やらカニやら食うもんがいっぱい採れて、田手川・城原川で運ぶとも簡単。こげな好条件が揃へば、誰でも集まってきたやろう。
人が集まりゃ集落がでける。このへんは広かケン、どんどん集まってきて、大集落に発展していく。
弥生時代には、これがあっちにひとかたまり、こっちにもひとかたまりでけていったろう。このひとかたまりば「ムラ」ていうた。「ムラ」が集まれれば、これが「クニ」になって、統治者がいるごとなる。
サルでも集まりゃケンカするとやケン、ヒトも隣の「クニ」と争いば始める。「クニ」ば守るとに吉野ヶ里の丘陵地帯ば一周する環濠ば作り出した。柵で囲わないかん。遠くば見張るとい櫓がいる。
この頃、倭国大乱(わこくたいらん)いうとが起こって、争乱が日本列島全部に広がっとったらしか。
駅長が実際見たわけやなかバッテン(当たり前タイ)、中国の複数の史書にまで書かれとるとやケン、間違いはなか。
戦争すればムラびとに死人が出る。もしリーダーでも死んだら、墓ば掘って甕棺に治めて埋葬もせないかん。
吉野ケ里の大きな憤丘墓(ふんきゅうぼ)は、南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近か丘で、高さは4.5メートル以上あったて推定されとる。
発掘された甕棺の中の人骨には、怪我ばしたり、矢じりが刺さったまんまのもの、首から上が無かもんなどがあって、倭国大乱ば思わせる戦いのすさまじさが残っとる。
また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっとる。
戦が続けば、防御ば厳重にするため環壕ば拡大したり、二重にしたりせなならん。見張り台は巨大化していった。
V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んど範囲は、約40ヘクタールにもなっとった。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)ていう敵の侵入ば防ぐ方策もとった。
食料ば保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造所などもでけて、吉野ケ里の集落も3世紀ごろには最盛期ば迎える。竪穴住居やら祭祀が行われよったて思われる主祭殿、東祭殿、斎堂も環濠の中で見つかっとる。
生活の場所が、ひとつでは狭うなったもんやケン、南北に広げて2つの内郭ができ、文化も発展した。
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)とは、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に、およそ50ヘクタールにわたって弥生時代の遺構が残る、大規模な環濠集落の跡。
昭和61年(1986)からの発掘調査によってたまたま発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部ば国が管理する公園になっとると。日本の城郭の始まりとも云えるものやケン、平成18年(2006) 88番目の日本100名城に選定された。
さて、吉野ケ里にこうして「クニ」があったとは、政府が20年以上も税金ばつぎ込んで発掘したケン分かったとバッテン、誰が治めとった「クニ」やったとか。
考古学のじいさん達は、邪馬台国とか卑弥呼とか、あぁだこうだて勝手なこと云いよんなるバッテン、これがまあだ分かっとらん。古代史は謎のままタイ。
駅長は、高天原から天下って来なったとは福岡市西区の「高祖山」で、邪馬台国は糸島か朝倉やったて思うとるケン、吉野ケ里ば邪馬台国とは考えんけど、候補地のひとつではある。
中国には書いたもんのあるとに、日本はまぁだ文字ば持たんやったとか、なにひとつ書いたもんがなか。
中国の正史ていう「三国志」魏書 卷30魏志倭人伝には「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」て、卑弥呼のことがちゃーんと載っとる。
チンプンカンプンやケン、翻訳すると「倭国(いこく・日本のこと)は元々、男の王やったとバッテン、何年も互いに攻め合うたもんやケン、一人の女ば立てて王にした。名ば卑弥呼(ひみこ)ていうゲナ。鬼道ば用いてよう人ば惑わし、夫は無くオールドミスやった」
「後漢書卷85」「梁書卷54」「隋書卷81」「北史卷94」にも、出所はいっしょやろうバッテン、書いてある。
そんなら邪馬台国はどこにあったとか
これも魏志倭人伝にある。その前に魏志倭人伝(ぎしわじんでん)とは・・・・。3世紀末(280年〜290年間)に、中国の統一王朝(西)晋の陳寿によって書かれた正史で、全文で1988文字からなっとる。
それば直に博多弁で読んだら。
帯方郡(いまの北朝鮮平壌の南にあった)から倭国さい行くには、水行(船)で海岸ばたどって、7000余里で韓国の狗邪韓国(くやかんこく・いまの釜山)に着く。
海ば1000里ばかり渡ると対馬国(つまこく・対馬)。ここは絶島で400余里四方の広さ。家が1000戸ばかりある。山は険しうて林は深く、良か田畑がなかケン、海産物で自活しよる。
また南に海ば1000余里渡ると、一支国(いきこく・壱岐)がある。300余里四方。竹・木・草むらが多か。3000人が住んどって、田畑はあるバッテン喰うもんは足りとらん。
また海ば1000余里渡ると末廬国(まつらこく・いまの松浦市あたり)に着く。4000余戸がある。草木がいっぱい茂っとって前ば行く人が見えんごたる。魚やアワビば捕って生活し皆が潜りの名人。
東南へ500里陸行すると伊都国(いとこく・糸島)に到着する1000余戸がある。王が居る。皆は女王国に属する。ここは中国からの使者が常に駐在しとる。
東南に100里進むと奴国(なこく・博多)で2万余戸がある。東へ100里行くと不弥国(ふみこく・宇美)に至る1000人余の家族がおる。
ここまでは方角と距離に多少の誤差はあるバッテン、まぁ分かるっちゃが、こっからとんでもなかことば書いとんなるもんやケン「まぼろしの邪馬台国」になってしもうとると。
南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)ていう。副を弥弥那利(耳垂)という。五万余戸ばかりである。
博多から水行(船で)20日いうたら、どこまで行ってしまう ? それに投馬国ちゃどこな。
「邪馬台国は近畿地方や」ていう学者は、瀬戸内海ば通ったとタイて云うし、邪馬台国九州派は「南九州やろう」、北九州派は「ここは書き損のうとんなると」て、収拾がつかんでおる。
魏志倭人伝の記述はさらにそっから「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に着く。帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある」てなっとるケン、もう訳は分からん。南に水行10日と陸行1月いうとは、スタートから全部の合計やろうていう研究者もおって、ケンケンガクガク。
分からんほうがロマンがあってよかバッテン、さあ、あなたはどこて思いんしゃる ?
さすが国営公園は違うバイ。とても市町村や県でこげなことはでけん。ていうぐらいなんにしても金の使い方が違う。リッパなもんば作っとんなる。
年中無休(12月31日、1月の第3月曜日とその翌日だけ休み) 料金はおとな400円、こども80円。駐車場・東口540台、西口310台。普通車で300円。国営にしては従業員の応対が素晴らしか。て、これは褒めとこう。
上・「こうやったろう」て復元された柵。ぐるりぐるっと囲んどったバッテン、運動会のごたる旗がヒラヒラしよつたかどうかは知らん。
下・甕棺と憤丘墓。
下の下・環濠の総延長は2.5km。
上左・園内では「勾玉づくり」とか「弥生なりきり」とかのイベントで古代体験ができる。
上右・北内郭の祭殿では、古代人(人形)がいつも集会ば開いとんなる。
左・ライトアップされた満月の夜の祭殿。
下・古代の日本で鳥は神聖なもの。天照大御神ば天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」に因んで、神前に鶏の止まり木ば置いたとか鳥居の始まりゲナ。
そげなややこしかこと云わんで、鳥が居るケン「鳥居」タイ。
右・北内郭の祭殿の屋根にも鳥がおる。