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福岡の大名町から移築した、日本で5番目に古か教会    「福岡県」の目次へ
 久留米市指定文化財

 福岡市の明治通りは、天神から西へ走ってすぐ卍にカーブする。信号は天神西。

 むかし、ここは万町(よろずまち)ていいよった。市電の線路もカックンとカーブしとって、電車が通るときには、線路と車輪がこすれて「キーキーキーッ」て軋みよった。

 いま西鉄グランドホテルがあるとこタイ。向かえに「大名町カトリック教会」いうとがあって、赤煉瓦造りの天守堂が見えよった。

それが、いま、久留米の聖マリア病院敷地内にある「雪の聖母」 聖堂タイ。。

 キリスト教が福岡に宣教しはじめたとは、明治20年(1887)のこと。長崎からエミール・ラゲ神父が来てからやった。この当時の福岡には一人のキリスト信者もおらんやったゲナ。

 ラゲ神父は、A.ラッセル神父と伝道士2名ば連れて来福。橋口町(現福岡中央郵便局あたり)の民家ば借りてクサ、そこば布教の根拠地としなった。永年続いた博多のもんの、キリスト教への偏見と、仏教寺院による妨害で、宣教活動はむづかしかったらしかバッテン、神父がおんなった3年のあいだに、36人が洗礼ば受けたていう。
 その最初の受洗者は井上六郎いう人で、明治21年5月20日のことやったゲナ。いまから120年も前の話タイ。

 ラゲ神父の後ば継いだ
アルフレッド・ルッセル神父は、次の2年間で27人に洗礼ば授けなったていう。そして、黒田家の家老斉藤家のものやった今の大名町教会の土地ば購入しなったと。

 明治26年になると、大分、中津、竹田、臼杵、高田などば巡回して宣教しよんなったフランス人の
エドワード・ベレール神父が赴任して来なった。

 当時の福岡は人口53,000人の大都会やったとに、信者はたったの35人ていう厳しか状況やった。
 バッテン、ベレール神父は「人々の目ば引く美しか教会ば建てろう」て決心しなって、パリの「勝利の聖母教会」に聖堂建設の援助ば依頼しとんなるとタイ。

 フランスの多くの信者の寄付があって、明治27年に聖堂は着工され、2年後の明治29年(1896)に赤レンガ作りの立派な聖堂が完成したていう訳。

 これが旧大名町教会堂、現在の「雪の聖母」聖堂やった。当時
「勝利の聖母」聖堂ていいよったとは、神父の所属しとんなった組織が、パリ「聖母の勝利」教会いうとやったケン、その名前からきとる。
 
 聖堂の生みの親やったベレール神父は、26年間も大名町教会の主任ば勤め、大正8年まで福岡におんなったとゲナ。

 この頃福岡には煉瓦造りの建築はひとつもなかったげなケン、この聖堂の設計者、施工者が誰で、建築費がいくらやったとかは、全然分かっとらんと。

 明治初期に来日した神父達(ド・ロ神父も)がそうやったごと、ベレール神父もまたなんでもでける人やったごたるケン、恐らく設計監督はベレール神父で、日本人の職人ば使うて建てなったて考えられる。

 それがなんで、いま久留米にあるとか、ていうことやが・・・。



トップの写真・パイプオルガンのある祭壇。光りの差し込む3面のアーチ窓が美しか。
上・病院に入ってすぐ右手にある教会の正面。
右上・入口から主廊と祭壇とコーモリ天井。
右・側廊の窓のカラーガラスと聖画も古か。

 歴代神父の熱心な布教活動で、昭和11年には信者が千人ば越えるごとなってきた。教会としては嬉しか限りバッテン、建物が手狭になってきたていう訳。

 そこで新聖堂の建設が計画され、昭和13年には隣接して木造の新聖堂が建築された。役割の終わった旧聖堂はどうしたかていうと、託児所などに使用されとったていう。

 戦災は免れたもんの、戦後になって自動車の振動やら、白蟻による被害ば受けて、老朽化が急速に進んどったところに、昭和50年代後半になると、新しゅう福岡カテドラルセンターの建設計画が具体化していった。場所のなかケン、旧聖堂ば解体せないかん。

 この情報がマスコミに伝わり、赤レンガの聖堂が「明治期の洋風建築として貴重なもん」いうことが報道されると、旧聖堂保存の要望が市民文化団体から出された。

 それば受ける形で、九州大学の土田充義さんたちの熱心な奔走と、久留米聖マリア病院の井出一郎院長の好意によって、赤レンガの聖堂は同病院の構内に移築復原することになったとタイ。

 昭和59年(1984)11月に旧聖堂の解体ば開始して、翌年(1985)1月、聖マリア病院敷地内に移築開始。昭和60年(1985)9月に移築復元工事が終わったていう。

 天井は主廊、側廊ともに板張りのコウモリ天井。主祭壇上部の天井に近かとこに3つのアーチ形縦長窓があって、落ち着いた堂内に静かな光ぱ取り込む。

 主廊の幅は18尺いうけん約6m、側廊幅は9尺てやケン、約3m。列柱の間隔はこれも3m。列柱は丸柱で台座と柱頭の飾りば持つ。

 広さは約230平方メートルで、入口のバラ窓や、祭壇上にある三面窓のカラーガラスは美しく印象的やった。

 現在、この教会は、聖マリア病院の施設として「患者や見舞いに来る人々の癒しの場になっとる」ていうとは嬉しかことやなかね。 

上・平成11年に完成したルルドの泉は、教会の正面右手にある。
右・パリ「聖母の勝利」教会から寄贈された「勝利の聖母」像。

復原の設計指導は、九州大学の土田充義さん・川上秀人さん。設計施工は(株)戸田建設九州支店が請け負うたゲナ。
 8万個におよぶレンガ壁は、カッター工法で切断され、瓦や床板などもできる限りそのままの材料ば利用して、当初の姿に限りなく近い形で復元されたていう。

 1年後の昭和61年(1986)8月には、「雪の聖母」聖堂として献堂式が行われ、万事、目出度しめでたしやった。

 聖堂の建物は単層屋根。切妻屋根桟瓦葺きで正面の破風ば石造にして一段高く立ち上げ、その頂点に十字架はかかげとる。
 鐘塔などの付加物が無かケン、ひとめ見たときに工場の建物かと思うた。

 ここで解説。カッター工法いうとは、戸田建設の得意技で、小型重機に取り付けた専用アタッチメントば、壁に押しつけて切断していくとタイ。リモコン操作による1回の作業で縦横2mが切断でける。深さは50cmまでOKゲナ。低騒音で低振動の解体工法やケン、町中での作業に効果が上がっとるていう。

 正面の切妻屋根ば乗せた玄関は、幅の狭か質素なもので、上がアーチ形になっとる。
 玄関屋根の上には、大きなバラ窓があって、その上に天主堂の文字ば入れた丸か石板がはめ込んである。

 全体として簡素バッテン、正面の幅に対して軒高が高く、レンガ壁面の大きさが印象的なごとでけとる。

 内部は三廊式で主廊部正面に主祭壇がある。現在は内陣の左側にパイプオルガンが組み込まれとって、いまでも使われよるていう。
 建物の左右側面には柱の間ごとにアーチ形の縦長窓があって優しか光りが差し込んどった。

 ところで、なし「勝利の聖母」が引っ越して「雪の聖母」になったとかは、引き受けた聖マリア病院がクサ、医療法人「雪の聖母会」の経営やけんタイ。平成11年(1999)12月には、聖堂の横にルルドの泉も完成しとる。

左・晴れた日は南に向いた入口と、上のバラ窓から差し込む光が幻想的、1回目は曇りやったケン、取材に行き直した。
右・側廊の壁に掛かっとる「十字架の道行」は、両サイドに7留づつ「イエス墓におさめられる」まで14留揃うとった。

左・木製のコウモリ天井。こうして撮せば、コウモリ天井ていう名前ばようつけたもんタイ。

右・大名町の頃の聖堂(取壊前)

 聖マリア病院 

 場所・久留米市津福本町。久留米市の中心「六ツ門」の信号から国道209号線ば南下。小頭町・六反畑の信号ば直進。1kmちょつとで右手に見える。目印は国道ばまたぐ病院の空中廊下。その手前で右折する。教会は病院に入ってすぐ右手、タクシー乗り場の奥に見えとるバッテン、車は駐車場に入れないかんめえ。   取材日 2008.09.29

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