ポルトガル国王の庇護下にあったイエズス会は、利益の多かポルトガル船貿易(南蛮貿易とセットで、布教に必要な資金ば得たり、領主に対して布教上の要求ばしたりしよったごたる。
領主も南蛮貿すれば儲かるもんやケン、お互いギブアンドテイクのバーター取引で好都合やった訳タイ。
ところが、永禄3年(1560)に、ポルトガル人と日本商人の間で、取引のもつれから傷害事件が起きたり、永禄4年
(1561)には、平戸・七郎宮の前で起こったこれも取引ば巡る争い(宮の前事件)で、ポルトガル船の船長以下13名が松浦氏の家来に殺害される事件が起こったりして、ポルトガル船は大村領の横瀬浦に移っていってしもうた。
その後領主・隆信は平戸のイエズス会に教会の建立ば許可したりしたとバッテン、ポルトガル船は布教に寛容な大村領や有馬領の港に入る事になって平戸からは遠のいてしもうた。
教会はエキゾチックな彫刻やらステンドグラスなどに芸術的な感性がある。そしてここもコウモリ天井の聖堂内が明るうて美しか。いまは北松地区の主管教会ていうことになっとるとゲナ。
ザビエル記念聖堂のおかげで、教会と寺院が混じりおうて調和する、平戸の独特の景色が見られるごとなっとると。
「寺と教会が見える風景」いうて、平戸観光教会は最大限に活用しとんなる。
慶長18年(1613)、江戸幕府は全国に禁教令ば出して、国内のキリスト教宣教師は国外に退去させた。
海外のカトリック教団は、折角日本に根付きよった信仰の灯ば消したらいかんいうことで、宣教師ば密かに入国させ、潜伏する信徒たちば支援させようてしたっタイ。
バッテン、彼らの殆どが捕えられて処刑された。
カミロ・コンスタツォ神父もその一人タイ。
平戸や生月で布教ば続けよんなったとバッテン、五島に渡ったところで五島藩の役人に捕えられてしまいなった。
元和8年(1622)9月15日、神父は、田平側の平戸瀬戸に面した焼罪(やいざ)て呼ばれる場所で、火あぶりの刑にされることになったと。
そこは対岸の平戸からでも処刑の有様が見られるごと高台になっとった。見せしめのために松浦藩は、わざとどっからでも見える場所ば選んだっタイ。
神父は柱の上に縛られながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語の三カ国語で説教し続けなったゲナ。
火がつけられても説教ば止めず、最後は「諸人挙りて主を讃めまつれ」や「聖なるかな」ていう聖歌ば唄いながら息絶えなったていう。
神父の遺骸は、信仰の対象にならんごと、海中に棄てられたゲナ。いま、その焼罪は史跡公園になっとって、カミロ神父ば称えるモニュメントがある。
このカミロ神父の布教に協力した生月の信徒たちは、神父の処刑に先立って、5月27日に、生月島の東に浮かぶ中江ノ島で処刑された。これがまた悲惨な話しタイ
神父ば泊めたけんいうてヨハネ坂本左衛門(31歳)、神父の乗る船ば用意したいうてダミヤン出口(42歳)
また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛(47歳)、6月8日にはヨハネ次郎右衛門(47歳)が処刑された。
次郎右衛門は棄教ば拒んで、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、もう遠くない」て叫んだゲナ。
さらに寛永元年(1624)3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族達が、処刑されたていうことやが、子供達3人だけは一緒に昇天できるごと俵につめられたうえ、海に投げ込まれたていう。
平戸のかくれキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、「お中江様・お迎え様・サンジュワン様・御三体様」などて呼ばれ、御神体に匹敵する最高の信仰対象とされとると。いまでも聖水ば頂く「お水取り」の行事が行われとるていう。
焼罪史跡公園は分かりにっか。平戸大橋の手前、田平港の信号から右折して、約1km登っていくと「たびらんど」ていうホテルがある。駐車場のよこから右に下っていくと史跡公園に着く。
平戸瀬戸の向こうに平戸島がよく見える。
右・生月島の東、平戸島との間に中江ノ島が浮かぶ。ガスパル様から遠望すると平戸島の小富士山(217m)ばバックにして、丁度、人が海に浮かんどるごたる。
キリシタンの聖地やケン、寝釈迦とは云われんやろう。
右・平戸観光協会自慢の「寺と教会が見える風景」
手前が瑞雲禅寺。中程が光明寺。奥の尖塔がザビエル教会。
白モクレンが咲いとって、白壁が美しか逆光の午後やった。