馬出小学校は昭和59年(1984)に、もとあった場所(いま馬出東住宅になっとる)から100mばかり西南の、地下鉄箱崎線「馬出九大病院前」の南側に引っ越した。
ここは以前に動物園があった場所で、残っとった(というか保存されとった)旧動植物園の正門ば学校の校門として使いよる。
この門はドイツのハーゲンベック動物園の正門ばマネして作られたていわれとる。
福岡市動物園が最初、ここ東公園に開園したとは昭和8年8月で、駅長が生まれた年の同じ月。昭和天皇即位御大典記念事業としてでけたとゲナ。
場所ばなし東公園にしたとかていえば、当時、市が千代町と合併したばっかりで、「仲ようしていこう」て配慮したけんやった。
バッテン、市側の意に反して地元では「動物園やら持ってきたら糞尿で臭か」ていう反対陳情も起ったていう。
左・いまも残してある旧動物園の門柱。
駅長が小学校の5年生になった時がちょうど動物皆殺しにして閉園した頃やったケン、動物園に遊びに行った記憶やらはなか。
そげなだんじゃのうして、敵機から逃げ回るとに必死やった。
もうその頃は「負け戦」いうとが子ども心にもハッキリしてきとって、学校に行ったらすぐに警戒警報のサイレンが鳴る。
下校の準備するまもなく空襲警報に切り替わる。防空頭巾ばかぶって、下級生の手ば引いて、軒先選んで逃げて帰りよった。
制空権ば握られとるもんやケン、博多の空ば敵機によかごと荒し回られよった。
動物は象、ライオン、熊、オットセイなどがおったそうやが、敷地は約5千坪と動物園にしては狭かもんやった。
建設費は当時の金で15万円。年間の入園者は約15万人。
観覧料が大人15銭、小人10銭。面白かとは軍人で制服ば着とったら10銭やった。
終戦近くになったら動物たちも食糧難タイ。また、空襲も始まったケン、爆弾で檻が壊されて猛獣が逃げ出したら危なかいうことになり、昭和19年5月には閉園、トラ、ライオンなどの猛獣は、みーんな射殺されてしもうた。
誰も知らん戦争の悲劇のひとつタイ。
戦後、世の中が落ち着いてきたら「動物園ば作りまっしょう」ていう声が高まってきた。小西春雄市長は議会で作るて約束しなったバッテン、当時、福岡市は財政難。
財界やら市民団体による「福岡市動物園協会」いうとが結成され、募金活動で2,800万円ば集め建設費として市に寄付した。
市民パワーで実現することになった今の福岡市動物園が南公園に開園したとは、敗戦から8年後の昭和28年8月やった。
初日の入園者数は約1万人やったゲナ。入園料は大人30円、小人10円。面積は約7千坪。動物は69種でスタートした。
2003年に開園50周年ば越したいまは、動物が約140種、植物が約2,600種ていう大きなもんに発展した。
東公園の県庁前の通りから、東へ一筋入ったとこに馬出小学校の校門がある。
反対の角にはメモリードホール博多馬出典礼会館がある。
最近このあたりはマンションだらけになってしもうた。
「どうぞう(銅像とどうぞの二重シャレ)て門柱はいいよんなるバッテン、いまの学校は「てんてらやーすう」は入られんと。