太平洋戦争で日本の旗色が悪うなった終戦の前の年、博多も北九州も空襲がひどうなった頃のこっタイ。旧日本軍はクサ、北九州山田の弾薬庫がやられたらイカン思うて。置いとる火薬ば疎開させた。
どこさい持って行ったかいうと、日田英彦山線の英彦山駅の南にあった二又トンネルと吉木トンネル(現・深倉トンネル)やった。二又トンネルいうとは、釈迦岳の丸山ぱくりぬいて作られたもんで全長約100mやった。
当時の日田彦山線は全線開通はしとらんで、小倉駅から添田駅までは「添田線」、添田駅から彦山駅までは「田川線」て、ちんぎれ(切れ)とった。
日田からは夜明駅〜宝珠山駅までが「彦山線」いうて開通しとったバッテン、このトンネルば含む彦山〜宝珠山間だけが未開通のままやった。
これは、彦山〜筑前岩屋間にこの二又トンネルのほか、吉木トンネル(全長59m)、釈迦岳トンネル(全長4380m)の計3つのトンネルが作られる計画で、二又と吉木は完成しとったもんの、釈迦岳トンネルが戦争激化で工事が中断されとったっタイ。
「山ん中に遊んどるトンネルのある」 軍部にしてみれば、弾薬庫ば疎開させるとにこげなもってこいの隠し場所はなかタイ。ここなら運ぶとも鉄道で運べばよかし、山ん中やケン大丈夫やろうて隠した訳よ。
それがクサ、ちっとやそっとの量じゃなかった。吉木に60トン、二又には800トンも運び込んどったゲナ。
上下・これは無事に弾薬の焼却がでけた吉木トンネル(現在の深倉トンネル)
昭和20年8月。終戦になって米軍が進駐してきた。彼らは英彦山に弾薬が隠されとることば知って、焼却処分ばすることにしたっタイ。
北九州からきた米軍のH・ユルトン・ユーイング少尉以下の処理班は、まず恐る恐る吉木トンネルの火薬に火ば入れた。パチパチて燃えて、スムースに処理できた。
それで安心してクサ、指揮官達は二又にも同んじごと火ばつけて、いっとき見とったバッテン「あとはまかせたバイ」て、地元の巡査部長に英語でいうてクサ、ジープに乗ってとっとと北九州に帰ってしもうたらしか。
地元の人たちも安心して、花火見物いうて集まって見よったゲナ。ところがどっこい、吉木と二又では詰め込んどった爆薬の量が違うとった。点火から2時間後のこと、大爆発タイ。なんとトンネルはおろか、山までが飛んで無うなってしまう程の大爆発やったゲナ。
爆発音が「福岡市内、別府までも聞こえた」いうぐらいやケン、そのすざましさが分かる。
そらそうたい、なんせ800トンの爆薬やもん。花火工場の火事とは比べようもなかタイ。
昭和20年(1945)11月12日、午後5時15分。作業員は勿論、近所の家、田圃・畑、見物に集まっとった村中の人、みーんな吹き飛ばされて200人もの死者が出たとゲナ。
丸山ごと吹き飛ばされたもんケン、山でドングリば拾いよった小学生29人も犠牲になった。
占領軍の横着さいうか、博多弁で云えばオーマンさちゅうか、これが戦争ていうもんやろう。とっとと小倉に帰っとった指揮官たち、あとで軍法会議にかけられたゲナが、あたりまえタイ。
1回目調べに行ったときは、50代のおばちゃんに聞いたもんやケン、知んしゃれんやったが、2回目は80越したおばぁちゃんに聞いたケン、よう知っとって「あたしゃあ、見に行かんやったケン、命びろいしましたとタイ」て、60年前のことば思い出して話ばしてくれた。
長いことかかって復旧した鉄道がやっと日田英彦山線として開通したとは昭和31年(1956)やつた。爆発事故から11年も経っとった。
いまの日田英彦山線は、山が無うなってV字になったとこば、そげなことは知らんでスーッと通り過ぎていった。
彦山駅の南側にあった第4種踏切は、いつのまにか「爆発踏切」て名前がつけられて、いまでも標柱に「爆発」の文字が残っとる。
左・この踏切で見よった村の人たちは爆風で飛ばされ全員死亡。
上・ここにあった丸山は、きれーいに吹き飛んでしもうて跡形もなか。