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近代化の名残か赤煉瓦のアーチ橋 「鉄道遺跡」の目次へ | |
北九州市文化財 | |
九州で汽笛一声が鳴り響いたとは、明治22年(1889)。九州鉄道が博多と千歳川仮停留所(久留米)間ば、1日3往復で開業した。この年、北九州では八幡村が誕生した。 それで、どこば走ったかていうと、小倉からずーっと山側さい迂回して三萩野・到津・槻田・荒生田(あろうだ)・大蔵・末広町・中央町・春の町・尾倉・桃園ば通って黒崎駅やった。 とくにいまの八幡東区役所から大蔵に向かう坂道は、当時、陸蒸気ていいよった蒸気機関車にとっては難所でやった。「ナンダ坂、コンナ坂」てあえぎながら上っていきよったゲナ。 しかも始め大蔵線の途中には駅がなかった。大蔵の停車場がてけたとは、7年も経って明治31年(1898)8月のことやった。いまの大蔵公園がその跡で、一時は八幡の表玄関として賑うた。 しかし、10年経って明治35年、小倉〜戸畑〜黒崎間の海側にも線路ば作ってヨカいうことになって、戸畑線ば開通させたもんやケン、もう大蔵線は要らんごとなった。しかも大蔵線に並行して九州電気軌道(のちの西鉄北九州線)が開業したもんやケン、乗る客も減ってクサ、明治44年9月にとうとう廃止されてしもうたっタイ。 アーチ橋の壁は、赤煉瓦のイギリス積み。長手と小口ば交互に積んだいちばん強か積み方。アーチは煉瓦の小口ば5段積みにし、アーチの乗る土台は花崗岩の石積み。北側は一段ごと煉瓦ばゲタ歯にしとるところをみれば、あとで継ぎ足して複線にすることも考えとったっちゃろうか。それともデザインとして飾ったつもりやったっちゃろうか。 尾倉町に残っとるもうひとつの橋梁(尾倉橋梁)とも、この点は共通しとる。 尾倉町のほうは現役で頑張っとるけど、茶屋町のほうは、一時遊歩道に使うたりしょったらしかバッテン、今では両側ば切り取られてしもうて、アーチの部分だけが遺跡として残っとる。 政治家いうとは昔から、おかしなことばっかりするもんバッテン、日清戦争は明治27年やケン、明治24年には海からの外敵ば心配するこたぁなかったばず。そこではビクビクしといて、海側に作ってヨカいうたときは、日露戦争(明治37)前で日本海に緊張が高まっとう時やったろうもん。 国鉄になって、明治41年(1908) 八代〜人吉間が開業する。これで門司〜人吉間が繋がり、人吉本線て呼ぶごとなった。翌年には人吉〜吉松間の矢岳越えが完成し、ここで始めて門司〜鹿児島が一本に繋がり鹿児島本線ていう名前がついた。しかし、これも海べたは危なか云うて、八代から先は山ん中の難儀なルートやった。 水俣・川内経由での鹿児島本線になったとは、20年後の昭和2年(1927)になってからやった。そしていまは、八代〜川内間が三セク「肥薩おれんじ鉄道」で、九州新幹線は70%がトンネルていう、また山ん中ば走りよる。 | |
場所・北九州市八幡東区茶屋町。国道3号線の黒崎駅前から約2km、前田の信号ば斜めに右折、県道50号線に入り3kmで大蔵の信号直進。こっからは県道290号線。1.2kmで右に西鉄ストアがある。ストアの手前を右折して川沿いに150mで四つ角。左折してすぐ右手。なお290号線をさらに200m行けば到津の森公園。 取材日 2007.10.14 | |
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