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MR 松浦鉄道にも竹筋橋が ? 「鉄道遺跡」の目次へ | |
まず明治31年に伊万里鉄道いうとが、有田〜伊万里間ば開通させる。これはすぐ九州鉄道に買収された後、明治40年には鉄道国有法で国に買い上げられ国鉄伊万里線になった。 あとちょっとで、北松浦半島ば周回するこのふたつが繋がれ、佐賀の伊万里と、長崎の佐世保が一本に結ばれるいうとき、昭和16年12月6日の真珠湾攻撃。太平洋戦争の勃発タイ。 戦争で中断した鉄道はどうしたかていうと、北松炭田の製鉄原料炭輸送と、佐世保軍港への軍事輸送のため、戦争まっただ中の物資の不足にもかかわらず、国は工事ば再開。 昭和19年4月13日には、残っとった潜竜〜吉井間ば繋いで開通させ、昭和20年3月には有田〜佐世保全線ば松浦線て命名した。 昭和20年8月15日、日本は連合軍に無条件降伏。平和は戻ってきたバッテン、車が普及するにつけローカル線の経営は思うごといかず、昭和62年には国鉄の民営化でJ R 九州になり、昭和62年松浦線廃止決定。昭和63年、後ばいまの松浦鉄道が引き受けた、ていう訳タイ。 なんでこげな、ややこしか松浦線の歴史ば書いたとかていうと、今回のテーマになっとる福井川橋梁が「戦争中のそれも敗色漂う、なーもなか時に作られた橋やった」ていうことが大切やったけんタイ。 竹筋橋であろうとなかろうと、潜竜ヶ滝〜吉井駅間に架けられた福井川・吉田・吉井川の三つの橋梁は、2006年、国の有形文化財に登録された。 福井川橋梁 昭和17年(1942年) アーチ部全長 67m アーチ半径10m×3連 吉田橋梁 昭和14年(1939年) アーチ部全長 58m アーチ半径5m×5連 吉井川橋梁 昭和19年(1944年) アーチ部全長 45m アーチ半径5m×4連 写真トップ・竹筋橋 ? ば行く松浦鉄道MR100型気動車。橋は3連アーチ橋で長さ67m。下ば吉井町から松浦市に通じる国道40号線が走っとる。橋が古かケン、下にはコンクリート落下に備えたカバーがしてある。 上から3枚・幸野川橋梁と瓜二つ。やっぱあ竹筋橋か ? 左・吉井駅・昭和8年(1933)開業。戦中戦後は北松炭田からの石炭積み出しで活気があったバッテン、エネルギー革命で昭和40年代までに相次ぎ炭坑は閉山し、駅も寂れてしもうた。 かってこっから分岐しとった世知原線も1971年12月26日で廃線となった。2004年の一日平均乗降客は約300人。 吉井町は明治22年(1899)吉田村と福井村が合併して吉井村になった。昭和26(1951)町制ば施行して吉井町になったとバッテン、2005年に世知原町・宇久町・小佐々町と一緒に佐世保市に入った。 | |
場所・長崎県佐世保市吉井町。北松から行きよったらまどろっこしかケン、佐世保から行こう。駅前の国道204号線ば約20km北上すれば吉井町。駅前の信号から直進1kmでふたつ目の信号ば右折、400mで橋の下。 取材日 2006.04.09 | |
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