このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

着工時(明治30年)は日本最長やった複線トンネル     「鉄道遺跡」の目次へ
 鉄道遺産

 金辺(きべ)峠はややこしか。旧道の、もう今は使われとらん金辺トンネルがあって、国道322号が二本あって、それぞれに新金辺隧道、第二金辺トンネルがある。
 日田英彦山線のこのトンネルも入れたら、峠全体では4本のトンネルがほげとることになる。

 金辺峠は、むかしから交通の要所で、峠を通る街道は行き先によって、田河道・香春街道・小倉街道・秋月街道などと呼ばれよった。そやケン、歴史上にも度々登場することになる。

 たとえば・・・
 島津が豊後に攻めてきたもんやケン、大友宗麟は慌てて豊臣秀吉に「九州へ来て助けてつかあさい」て頼んだ。

 秀吉はまず、毛利・吉川・小早川に「お前達が近かケン、先に行ってやりやい」て命じた。

 天正14年(1586)、その毛利軍によって、島津についとった香春岳城は落城し、高橋元種は降伏した。

 秀吉は大軍ば率いて、やっと翌1587(天正15)年出陣した。これら秀吉の九州平定軍も、たびたびこの峠ば通っとることになる。

 慶応2年(1866)、第二次長州征討戦の小倉口の戦闘で、自ら小倉城ば焼いた小倉軍の最高責任者島村志津摩(しづま)は、金辺峠ば拠点に企救郡内から農兵ば集めて、領内ば長州軍からの侵略から守るために、遊撃戦ばした。
 要するにゲリラ戦タイ。

 金辺峠には、島村志津摩の碑がちゃんと建っとった。

 金辺トンネル(長さ1,444m)は、はじめ金辺鉄道が明治30年(1897)着工したっちゃが、この路線のなかでこのトンネルば掘るとが一番の難工事やったらしか。

 南北から掘り進めたトンネルがクサ、中央で合わずに、責任者が切腹したていう話も残っとる。

 そして金辺鉄道はとうとう資金が続かず、明治33年(1900)解散してしまいなった。工事中断タイ。

 後ば引き継いだとは小倉鉄道で、大正元年(1912)から工事ば再開したとバッテン、落盤事故で死者・行方不明者はでるし、ここも苦労の連続やった。結局20年かかって完成したとは大正4年(1915)のことやった。

 その後、小倉鉄道は旧国鉄に吸収され、添田線やら他の線ともつながりながら、いまのJR日田英彦山線に落ち着いたていう、九州の路線の中でいちばん変遷の激しか路線やった。

 金辺トンネルの線路は、トンネルの中央ば通らずに、東によって敷いてある。
 石炭輸送が増えたら、いつでも複線化ができるように考えられとったと。
 バッテン、予想ほど石炭輸送は増えんやった。

 国道から旧道におりたら、踏切があってその向こうにトンネルが見えた。

 てっきりそれが金辺トンネルと思うて、写真も撮るだけ撮って、汽車の来るとば待っとった。30分も待って、やっと汽車がきたケン、汽車も撮した。

 満足して旧道は上がっていったら、下に大きなトンネルが見えた。

 これが本物 ?  さっきんとはなんやったと ?

 そういえば、さっき写したトンネルは長さがせいぜい100m足らず。金辺トンネルは、長さ1.4km。こっちが本物で、さっきのは勘違いトンネルやった。

 そうやろう、なんかちゃちで、貫禄の無かったもん。それに引き替え、本物の金辺トンネルは、風格がただもんではなかった。

 日田英彦山線がめったに来んとばいいことに、トンネルまで降りていってみたら、中はレンガ積みで、ポータル(入口)は苔むした切石の立派なもんやった。

 苔もなしか知らんけど名前の通り金色になっとった。

左・旧道の跨線橋から見た金辺トンネル

上・金辺トンネル入り口から、呼野側。
  旧道と勘違いしたトンネルが見えとる
  跨線橋は水路橋も兼ねとった。

 場所・香春町〜北九州市。国道322号線ば香春から約6km北上すると金辺峠。峠の信号を直進して直ぐ先の小道を左折、旧道へ下りる。突き当たって左へ登り返せば日田英彦山線の上にでる。左眼下に入口が見える。  取材日 2007.09.06

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