このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 九州でいちばん古か鉄道の鉄橋        「鉄道遺跡」の目次へ
  鉄道遺構   

 いまから云うたら120年近くも昔の、明治22年、博多駅から久留米まで、始めて汽車が走った。

 久留米いうても、筑後川の手前に「千歳川」ていう仮駅ば作って、そこまでまず開通させたと。
(そのころ筑後川は「千歳川」て云いよった)

 何故手前までか云うたら、筑後川に鉄橋ば架けるには、大金がかかるとバッテン、直ぐには金の工面がつかんやったけんタイ。

 九州鉄道(株)は銀行から金ば借り集めて、ドイツのドルトムント・ウニオン社に頼んでクサ、ドイツ人技師
ルムシュッテルの指導でやっと翌年竣工した。

 これが九州で最初にでけた記念すべき鉄道の鉄橋ていう訳よ。

 鉄橋がでけて、やっと筑後川ば越せるごとなったとは、明治23年(1890)のことやった。 この鉄橋、ピン結合プラット・トラスいうて、トラスいうたら三角形の構造で支える橋のこっタイ。筑後川は巾の広かケン、32mのトラス橋が9個も連なっとったゲナ。

 折角架けた橋やったけど、初めの頃の機関車(いま宇佐神宮に保存されとるクラウス)ならよかったバッテン、機関車がだんだん大型化して8620やら9600が走るようになったら、この橋では重さに耐えられんごとなってしもうた。

 そらそうやろう。クラウスは10トン。9600型になれば機関車だけで60トンやケンねぇ。初めの頃のクラウスなんて玩具みたいなもんタイ。・・・・それで筑後川の橋は、大正3年に架け替えられることになる。

 撤去された初代のトラス橋はどうなったかていうと、その頃、開通ば目指しとった鹿本鉄道の菊池川橋梁へ、4連の橋が転用されることになった。

 こうして、大正9年には菊池川橋梁としてトラス橋は熊本で甦ったちゅう訳タイ。

 そんとき橋梁全体の設計ばしたとが、大分県の土木技師小野安夫さんやった。

 彼は九州遺産の別項で取りあげた「白水溜池」ば作った人タイ。
 それから約50年間、このトラス橋は菊池川ば跨いで鹿本鉄道のために頑張ったていうことになる。

 
鹿本鉄道ちゃあなんかいな、ていう人にちょっと解説すればクサ、

 大正6年(1918)に熊本県の植木から蒸気鉄道ば始めて、路線ばだんだん延ばし、大正12年には山鹿までの全線ば開通させた。そして昭和27年からは
「山鹿温泉鉄道」ていうごとなったローカル鉄道のことタイ。

 永年、地域の足として親しまれたとバッテン、度重なる水害やら、乗客の減少で採算が取れんごとなってクサ、昭和35年で走らんごとなったと。

 昭和58年(1983)鉄道の廃線跡がサイクリング・ロードになるいうことで、菊池川の鉄橋も撤去(ここシャレ)されてクサ、植木町の宮原駅に記念物として一部が保存されとった(1連32mやったとば24mにした)とやが・・・

 平成14年、鹿本町が「水辺プラザ」ば作ったとき、鹿本鉄道の後身の「山鹿自動車(株)」が町に寄付したケン、町は鉄橋ば解体して、ここに保存したていうわけよ。お陰で九州最古の鉄橋が10分の1にはなったバッテン、クズ鉄にされんで、安住の地に納まったと。

 熊本のその辺ば通ったら国道のすぐ側やケン、ちょっと立ち寄ってクサ、流れ流れてここに落ち着いた、貴重な鉄道遺産ば見てみんしゃい。



















公園の小川に架けられた橋は頑丈な作りで、この鉄橋ば渡ったら「身体が頑丈にになる」ていう。もっとも、これは駅長が勝手に云いよるとやケン、あんまり当てにしたらいかん。

 公園内には水ば噴く石の風車もある。また、ここから1kmちょいで、道の駅・七城メロンドームがある。

 場所・山鹿市・鹿本町・水辺プラザ。山鹿から菊池へ325号ば約8km走ると左手に水辺プラザの本館が見えてくる。
国道の反対側(右手)に、小川ば跨いだトラス橋がある。国道から土手へ右折すれば、河川敷に駐車場がある。
                                            取材日2007.3.14

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