このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

開通してたったの30年で廃線になった橋       「鉄道遺跡」の目次へ

 山ん中に埋もれとるこの橋は広平(こうひら)橋梁。
 もう廃止されて23年になる宮原線(みやのはるせん)が通りよった橋。

 ここでまず宮原線について説明しとかないかん。

 宮原線ていうとは、久大線の豊後森(正確には恵良駅)から分かれて、山ん中ばっかし走って、肥後小国までの盲腸線のこっタイ。

 盲腸線なんて失礼な。

 計画された時は、なんと、小国からさらに西へ延ばしていって、菊池から熊本まで通す予定やった。

 まだまだ、そんくらいのこっちゃなかバイ。正式には改正鉄道敷設法別表の第113号に規定された予定線の一部でクサ、佐賀から瀬高、熊本県の隈府(現在の菊池)ば経て、豊後森に至るていう壮大な路線計画やったと。

 佐賀〜瀬高間は佐賀線として、瀬高〜南関間が東肥鉄道として開業。大分側でこの宮原線が開業したとバッテン、志は貫通せず、いまはその全てが廃線になってしもうとる。

 その宮原線は、昭和12年(1937) 6月27日 久大線の恵良〜宝泉寺(7.3km)でまず部分開業したとバッテン、太平洋戦争が厳しゅうなったもんやケン、昭和18年(1943)でいったん休止。レールは全部戦争に供出させられたゲナ。

 終戦になってやっと昭和23年(1948年)営業再開し、6年後の昭和29年(1954)宝泉寺〜肥後小国(19.3km) ば作って、どうやらこうやら開通した。

 ところが思惑と現実はズレとって、客足は伸びず、期待した山間部の貨物もトラックに取られて、路線の赤字は増えるばっかしタイ。とうとう、昭和46年(1971)には、全線で貨物の取り扱いば廃止した。

 それでも間尺に合わず、1980年の国鉄再建法の施行ば受け、第一次特定地方交通線として、とうとう昭和59年(1984)に全線が廃止された。ローカル線廃止の九州第1号ていう不名誉な記録ば作ってバイ。

 そもそも計画が悪かと。
 改正鉄道敷設法の別表第113号なんて、何処の国会が作ったとか知らんバッテン、汽車ば通すとならクサ、沿線に見込み客(利用しそうな人口)が何人おって、貨物がどんくらい見込まれるか、なんていうぐらいのことは、ちょっと市場調査すれば、すぐ予測できたろうもん。

 その頃はマーケティングなんていう技術はなかったっちゃろうか。

 もつとも、そんくらいのことは常識ていう超近代でも、福岡の地下鉄七隈線のごときは、専門のコンサル

タントと調査費ば腹いっぴゃー使うといてクサ、3年経っても乗降客は計画の半分ゲナ。6億も赤字こきだして、こら、幼稚なんていうもんやなかバイ。市民にどげんいうて説明するつもりか。

 七隈線に腹かきよったら、橋のことば忘れよった。この宮原線26.6kmの間に駅が6つ。コンクリート橋が7つあって、そのうちの二つは竹筋じゃなかかて云われとる。

 駅は、恵良駅〜町田駅〜宝泉寺駅〜麻生釣駅(あそづる)〜北里駅〜肥後小国駅。
橋は、廣平(こうひら)・菅迫(すげのさこ)・堀田(ほりた)・汐井川(しおいがわ)・堂山(どうやま)・北里(きたざと)・幸野川(こうのがわ)。

 竹筋(ちっきん)コンクリートアーチ橋ちゃなんかいなていえば、この路線ば作ったとが戦時中やろう、鉄が無うてクサ、竹ば鉄筋の代わりにして、コンクリートば流し込んどるとタイ。そやけん鉄筋コンクリートやのうして、竹筋コンクリート。それが珍しさに、この橋梁群は2004年に国の登録有形文化財になった。

 広平橋梁は、麻生釣駅〜北里駅の間に架かっとった橋で、宮原線の中では最も大分県寄りにある。
 9連のアーチ橋で傷みが少なくて往時の姿を良う残しとる。橋梁群の中でいちばん大きか谷間に架かっとって、そこに広がる農村景観にすっかり溶け込んどった。

 7mスパン(巾)のアーチが連続する大きなな橋梁は堂々としとって、いま蒸気機関車が走ってきてもよかごたる。完成したとは、昭和12年(1937) 橋の長さ77.40m、単線で幅員は3.2mやった。

 この橋の近くに「岡本とうふ」ていう有名な店があって、そこの大将に橋に行く道ば聞いたら、「ウチの土地ば通らな行かれんケン、教えちゃらん」なんて冗談いいながら、詳しゅう教えてくれた。
 橋とは無関係やが、ここの「ざるどうふ」は旨か。写真・右


 写真ば撮りよったら、小さなトラクターば運転して来た、おじいさんが、草ぼうぼうの橋の上ばコトコトコトて渡っていった。なんでも橋の向こうに小さな田圃があって、手入れしに来たていう。

 「橋の上も草刈りせないかんとバッテン」て気にしとんなるところを見れば、汽車の通らんごとなった橋でも、こうして可愛がって貰いよるとが分かった。

 広平橋梁ば渡ってこのトンネルば抜け、しばらく行くと北里駅やった。北里柴三郎の生家があって、小国のビジターセンター木魂館(もっこんかん)もある。

 橋までの道は、いかにもひとむかし前まで、汽車が走りよったような風情の残る道やった。線路やった跡が車の轍の跡に変わっとった。

 廃線の時、ここば走りよったキハ07型気動車は、いま門司の九州鉄道記念館に行先標ばつけたまま保存されとる。

 あっそうそう忘れとった。小国に行くとになんで宮原線かて、これ不思議やろう。
 これはクサ、終着小国駅ば作った土地の字名が宮原(みやのはる)ていうとこやけんゲナ。市とか郡とか町とか、比較的広範囲の地名が路線名になることはあるバッテン、字名が路線名になったとは珍しかと。

 豊後森からいうて、この橋のひとつ手前、麻生釣駅は、もう自然にかえってしもうて、駅があったことすら分からんごとなっとるバッテン、汽車が走りよった頃には、映画「男はつらいよ 寅次郎わが道を行く」(1978年)に登場した駅やった。

上・この階段を上がればたしか貨物用のホームがあったはずだが。
右・これがたしかに線路の跡、ホームの石垣が草むらの中に残っとる。
宝泉寺を出た汽車は、この道を向こうから走ってきたっちゃろう。

 ところでなし、こげな周りに人家もなかとこい、駅ば作ったかていうことやが、宝泉寺にしかなかった小学校に通う定期利用者があったけんゲナ。しかもその子達の家は、麻生釣駅からまた9kmも山ん中やつたて。

在りし日、寅さんの映画にも出た麻生釣駅

 場所・熊本県阿蘇郡小国町大字西里。九州高速大分自動車道を玖珠ICで下りる。取り付け道路から左折して国道210号線を3kmで粟野の信号を右折する。あとは国道387号線を20km南下。道路が国道とは思えんくらいに狭くなって急カーブが連続しだしたら左に「岡本とうふ」がある。ここで聞くがいちばん             取材日 2007.10.4

「鉄道遺跡」の目次へ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください