このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

SLは走らんでもアメリカンアーチの美しか      「鉄道遺跡」の目次へ
 

第一球磨川橋梁

 肥薩線は八代から人吉まで、喧嘩しても別れられん夫婦のごと、ずっと球磨川に寄り添うて走る。そしてクサ、2回も橋ば渡って、左岸に行ったり、右岸ば走ったりする。

 第一球磨川橋梁は、八代ば出て一番目の鉄橋。
 鎌瀬ていうくらいやケン、鎌のごと球磨川はここで、大きゅう蛇行しとる。

 右岸ば走ってきた肥薩線は、鎌瀬の駅ば出たらすぐに鉄橋ば渡って、あとはずっと左岸ば遡っていく。

 明治41年(1908)に架けられたとやケン、この橋はもう来年で
100才。しかもまあーだバリバリ現役ていうけん恐れ入る。

 その当時、九州の鉄道はドイツにおんぶされとったとバッテン、なしかこの鉄橋だけは鉄道省がアメリカに発注しとる。

 設計したとは、アメリカ人技師のクーパーとシュナイダー。船ではるばる運んできて架けたとは、アメリカン・ブリッジ社。そやけん橋の鉄骨に
「1906 AMERICAN BRIDGE Co. NEWYORK U.S.A」て彫り込んだとの残っとる。

 当時の製鋼技術がまだ幼稚かったケン、トラスの節点はピン結合で、現在ではもう珍しかとらしか。

 複数の小断面部材ば組み合わせて1本の部材が作られとるとば見ると、時の、技術の経過ば感じさせる。

 でも、100年経ってビクともせんとやから、ダサイけど今の技術より上やったとかもしれん。

 正式には、二連のピン結合方式トラス橋ていうとゲナ。トラスていうとは、鉄骨の構造が三角形ば基本に組まれとるとタイ。

 しかもここんとは、トランケート(切り詰め)式ていわれ、川に対して直角じやなかと。60度も斜めに川ば渡っとるとバイ。

 球磨川の流れに逆らわんごと、橋台部が煉瓦、橋脚部は切石積みで合理的になっとる。全長は205mで線路は単線。

 そしてなにより、いつ、どっから見たつちゃ美しか。蒸気機関車が走らんゴトなっても、この構造物は川面に映えて毅然としとる。

第二球磨川橋梁

 人吉からみっつ手前の那良口の先で、球磨川ば渡っとる第二球磨川橋梁も、第一と全く同じ設計者で、施行したともおんなじアメリカンブリッジやった。

 このタイプの橋は日本全部で、5橋7連しか架けられとらんでクサ、いま残っとるとは球磨川のふたつだけ。

 設計加重は98トンの機関車2台と、30cm当たり1.5トンが乗っても大丈夫ゲナ。

 ともに文化財に指定されとうとが、当たり前ちゃ当たり前のことやねぇ。


 引退した「あそBoy」ば、J R 九州が2009年8月までには「人吉号」として復活させるげなケン、そん時にはSLが球磨川の鉄橋ば渡るとがまた見られるタイ。

 球磨川に残る明治の鉄道遺産ば見に出かけてもうやなかね。

渡駅ば発車した上り八代行きの貨物列車が、第二橋梁にさしかかった。このあたり「那良の瀬」いう急流タイ。

肥薩線に蒸気機関車が走りよった頃

33年前、あと1年で蒸気機関車は廃止ていう頃、第一橋梁ば渡る朝の通勤列車。引っぱりよるとはC57やった。球磨川特有の川霧が漂う。

 場所・第一球磨川橋梁は、鎌瀬と瀬戸石の間。八代~人吉間の国道219号線から見える。第二はさらに上流の那良口と渡の間にあって、これも国道から見ることが出来る。渡駅の手前から右折して、相良橋を渡れば、鉄橋のすぐ側にいける。
                            
取材日 2007.3.25  SL写真は1972年の撮影

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