このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

40年も捨てられとったSLの城に陽が当たるか      「鉄道遺跡」の目次へ
 

 久大線の豊後森は、かって蒸気機関車の基地やった。いまでもここに残っとる扇形の機関庫は、昭和9年(1934)、久大線の開通と同時に完成した鉄道遺産タイ。
 久大線ば走る蒸気機関車の点検、修理、補給に活躍したとバッテン、久大線からSLが消えた昭和45年(1971)に廃止された。
 いま、日本に残っとる扇形の機関庫いうたら、小樽と京都梅小路とここ豊後森のみっつしかなか。旧国鉄の貴重な遺産やけんいうて、小樽(赤煉瓦バッテンたったの3両)と京都(蒸気機関車館で現役)は大切に保存されとるバッテン、ここんとは、40年以上もほったらかされて、もう荒れ放題。
 かっての「SLの居城」は廃墟となってしもうとる。

 最盛期の昭和29年には、配備車両25両。職員217名やったていわれとるケン、機関庫はまさに久大線の心臓部やった。久大線の恵良から小国まで走りよった宮原線も、実質ここが起点になっとった。
 機関車は60〜70キロごとに石炭やら水の補給ばせないかんケン、基地が必要タイ。久大線では、久留米と大分のちょうど真ん中にあたるとか豊後森やケン、補給基地の機関区が作られとった訳。

 鉄筋コンクリート造りでヤードは約1800平方メートル、SLの向きば変える円形の転車台(ターンテーブル)ば中心に、当時最高の技術で作られた扇型格納庫は、まさにSLの城やった。

 悲しか記憶もある。昭和20年(1945)8月4日、良く晴れた暑い日の出来事やった。午後2時40分ごろのこっタイ。突然の空襲警報が静かな町に響き渡った。

 東の方から飛んで来た数機の米軍機が、低空で旋回しながら機関庫めがけて機銃掃射ば繰り返した。戦闘機やったケン、爆弾は落とさんやった。

 そのため、蒸気機関車は助かったバッテン、機関区の助役と従業員の2人が直撃ば受けて死亡した。

 この機関区が、軍事輸送の拠点となっとったとばクサ、ちゃーんと米軍は知っとって攻撃目標した訳タイ。終戦のたった10日前のことやった。

 いまでも、東側のコンクリート壁には、直径30センチほどの弾痕がが無数に残されとる。
 空襲は1回だけやったバッテン、終戦まで町は、次の空襲がえずうてビクビクする日が続いたていう。

左上・右上 西日が沈む機関庫。13本の線路があって、13両の機関車がいっぺんに入庫でけた。
右・機銃掃射の弾痕が残る東の壁には、放置されて蔦が伸び放題。

 原形のまま残る機関庫としては九州では唯一のもんやケン、「鉄道の町の遺産ば未来に残したか」いうて、
平成13年(2001)から商工会やら町民たちでつくる「豊後森機関庫保存委員会」が立ち上がった。署名活動やら、機関庫ばテーマにした短編映画の制作、毎年10月には「機関庫まつり」もして保存運動ば盛り上げよんしゃった。

 この熱意に押されて玖珠町は2007年3月に、JR豊後森駅構内の「豊後森機関庫」跡地と周辺の遊休地約1ヘクタールば買い取る予算案ば町議会に提出しなった。
 可決された購入予定額は3500万円。早速JR九州と正式な売買契約ば結ぶ予定ゲナ。町は「今後保存方法、活用策ば町民と協議しながら、
鉄道記念公園(仮称)として整備していきか」ていいよんなる。

 立派。立派。バッテン、玖珠ぐらいの町で財政的に大丈夫かいな。鉄道公園にしたときには、看板にせなならん筈の保存蒸気機関車C11(三島公園)でさえ、その後も放置したままで整備もでけんぐらいやケン、「意あって金足らず」で実現は危なか。道路財源からでも、ほんのちょこっと国が助けてやればよかといねぇ。
 SLば支えた「昭和のコロシアム」の運命は如何に。

 場所・大分県玖珠町。九州高速大分道ば玖珠 I C で下りて取り付け道路ば左折。500mで陸橋の手前ば左の側道に入り、次の信号で右折すると陸橋下をくぐって駅前の通りに入る。陸橋下から約300mの小道を左折してすぐに久大線の踏切を渡れば、そこが機関庫の広場。                            取材日 2006.11.22

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