このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

人間なら80才八幡製鐵の専用線     「鉄道遺跡」の目次へ
 鉄道遺産

 宮田山トンネルは、明治34年(1901)に創業の八幡製鐵所八幡工場と、大正14年(1925)創業の戸畑工場ば結ぶ専用線・八幡製鐵鉱滓線(こうさいせん)の途中にある。

 八幡製鐵所いうたら、今の新日本製鐵タイ。社名の鉄の字は古か「鐵」の字ば使わないかんと。

 この専用線、トンネルも含めて昭和2年(1927)から作り始め昭和5年(1930)に完成した。

 何のために作ったかていえば、勿論、工場間の資材運搬もやが、八幡工場で発生するスラグ(鉱滓)ば、戸畑地区の埋め立て用に運搬するためやった。

 鉱滓(こうさい)いうたら。製鉄する過程で溶かした金属から発生するカスのこっタイ。

 昭和47年(1972)、社員への公募で
「くろがね線」ていう愛称がついた。

 でけてから、もう70年近う経っとるバッテン、まあだ現役タイ。

 八幡の工場内からスペースワールドの横ば通って、枝光で鹿児島本線とクロス。宮田山ばトンネルでくぐり、東進して一枝あたりから北に向きば変え、九州工大の横ば通って戸畑の埋め立て地まで全長5.6km。

 運行ダイヤは、朝7頃からはじまって、1時間1本の割合ぐらいで動きよるバッテン、あくまでも八幡製鐵の勝手。戸畑まで約20分ぐらいゲナ。

 列車は先頭がEL(電機機関車)で、貨物車の後ろにDL(ディーゼル機関車)が補機としてつく。住宅地ば通るっちゃケン、ゆっくり静かに走る。
 ELやDLもほとんど音が聞こえんごと防音仕様になっとるごたる。

 そやケン、列車が近づいてきても、ぼーっとしとったら気がつかん。レールも継ぎ目のなかレールやケン、音も出らん。機関車見たっちゃ人影がなかケン、ひょっとしたら、無人運転かもしれん。

 なんとも不思議なこの鉄道、専用線だけに囲いがしてあって簡単に撮せるような場所がなか。

この宮田山トンネルの工事は、断層と湧水のため、とつけむなか難工事でクサ、殆ど人力による掘削やったらしか。昼夜兼行で進められたゲナ。

 トンネルは長さが1,740m、幅が8.3mで、いまは単線バッテン、路盤は複線仕様に作られとって、以前は複線で列車がいったり来たりしよったらしか。あまった路盤に輸送用のパイプなどがたくさん敷設されとって物々しか。さすが八幡製鉄タイ。早うから電化してあったゲナ。

 掘った当時は、なーもなか山やったっちゃろうバッテン、いまでは丘陵の住宅地になっとって、トンネルの真上に道が丘のてっぺんまで伸びていっとるとが見える。

 トンネルのポータルデザイン(出入り口)は、八幡側がルネッサンス様式で「ギリシャ神殿風」、戸畑側がローマ時代の城壁のごと花崗岩ば積み上げて作られとる。アーチの両端には、官営やった日本製鐵時代のマークがある。

 枝光側でJRと県道ば股ごす枝光橋も昭和5年(1930)にでけたときのままで古か。この鉄橋、むづかしゅう云えばブレースドリブタイドアーチいうて、東京の隅田川に架かっとる白髭橋(昭和6年)といっしょの構造。

 いま専用線は、昭和47年(1972)に架け替えられたすぐ隣の
新枝光橋ば渡りよるけど、それまで80年はこの鉄橋、764mば渡っていきよった。こげなともぜーんぶひっくるめて、八幡製鉄所の産業遺産ていう訳。

上・枝光側のポータルはルネッサンス風。
右・製鉄大合同で「日本製鐵」になるとは昭和9年やケン、このマークは官営八幡製鐵所時代のもんやろう。いまの新日鐵マークもこればアレンジしたもんになっとる。

左・トンネルの枝光側から。左カーブしとるところが新枝光橋。
上・枝光駅から。左がくろがね鉄道の新枝光橋。右の線路は鹿児島本線。列車の向こうにスペースワールドが見える。

 以前、八幡製鐵所は「やはた」じゃのうして「やわた」ていいよった。製鐵所がでけたとき、明治政府の役人が地名の八幡ば読み違えて「やわた」て書いたもんやケン、それがそのまま名称になったとゲナ。いまの人は普通に「やはた」て読みよるけど、年寄りは「やわた」のほうがおさまりのよか。

 場所・北九州市八幡東区。J R 枝光駅で下りると右手に古い枝光橋がみえるケン、その下ば左折して坂ば登っていく。トンネル入口の手前に跨線橋があって、金網がはってあるけど、ここからがよう見える。    取材日 2007.10.14

「鉄道遺跡」の目次へ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください