このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

地元の人に愛されたポッポ汽車          「鉄道遺跡」の目次へ
 鉄道遺産 

 大正元年(1912)、大川鉄道が、久留米〜大川間に軽便鉄道ば走らせた。

 久留米市縄手町から、津福〜安武〜大善寺〜早津崎〜城島〜大川までを蒸気機関車が走った。

 人だけではのうて、大川特産の家具やら酒・畳表なども運びよった。

 日田の木材ば大川の家具工場に運んだり、糸島米ば城島の醸造元に運んだりして、地域の産業振興になくてはならんもんになっとった。

 大正8年には、大川〜柳川間、10年には若津〜榎津間の営業も開始して、地元は大喜びしたもんやった。

 昭和8年には、バスとの競争が厳しゅうなってガソリンカーにしたり、戦時中は木炭列車にしたりして、41年間、三潴の動脈として活躍した。

 昭和12年には九州鉄道が、大川鉄道ば吸収合併したり、17年には私鉄が5社合併したりして、最後は西鉄大川線になっとった。

 しかし、時代の流れには勝てんで
とうとう昭和26年には休止、41年、正式に廃止となってしもうた。

 ここば走りよった蒸気機関車は「ピッーポッー、ピッーポッー」て牧歌的な汽笛ば鳴らして走りよったケン、みんなから「ポッポ汽車」て親しまれとった。

 上久留米駅〜下久留米〜津福間はのちに上久留米線になった。
 安武〜御塚〜大善寺間は西鉄大牟田線がでけたとき(昭和12年)、大牟田線に組み込まれた。

 大善寺〜早津崎〜塚崎〜草場〜城島〜城島新町〜江島〜青木島〜鐘ヶ江〜三又〜若津〜西鉄大川が最後まで大川線として残った。
 大川駅は大川市の中心榎津にあった。

 全区間単線の、わずか20km足らずの鉄道やったけど地元にとっては貴重な「足」やつた。


 久留米に通いよった、日本足袋・つちや足袋の従業員さん達には、7割引の工員定期券ちゅうとがあって、人気のあったゲナ。


写真下・左は整備前でよれよれの姿。右は整備された直後でピカピカに輝いとる。 

 2006年8月に始めて見に行ったとき、だいぶんくたぶれとって「可哀想かなあ」て思いよったら、次に通りかかったときにはピカピカに整備されとった。駅長が嬉しゅうなってクサ、久留米市にお礼のメールばしたら三潴支所から電話があって「整備したとは2007年の桜が散った後で。洗浄に2日、塗装は3回塗り重ねで3日間。費用は三潴町内の業者さんにお願いして安くしてもらった」ていう連絡ばもろうた。

 なんでも近くにある三潴小学校の子供達から「なんとかしてよぅ」ていわれて実現したらしか。三潴小学校のHPには「ポツポ汽車のように、みんなに慕われる人間になろう」て記事があるくらい、子供達のアイドルらしか。そんなら市もきれいにしといちゃらないかんやろう。
 ところで、なし桜が散った後に工事したかて云えば、塗ったとこい桜の花びらが散ったらいかんけんタイ。

 当時、蒸気機関車は全部で9両おって、1号〜5号がドイツのアーサー・コッペル製やった。作られたとは明治44年(1911)。4輪連結のタンク機関車やった。

 長さが4m72。重さ7.8t。客車2両+貨車2両で最高速度20km/hは出よったごたる。客車の定員は50人。軌間1067mmやった。

 廃止になった後、1両が小倉の到津遊園地に保存されたとバッテン、地元の惜しむ声にこたえて、平成7年(1995)4月、西鉄がここに寄贈してくれたとタイ。

 ちょっとしたミステリーがあって、本当は4号車の筈バッテン、なしか今のナンバーは「5」になっとる。

 保存は上屋がある以外、柵も囲いもなく全部オープン。学校帰りの子供達が、機関室に入り込んで道草しとる。

左下・むかし「ポッポ汽車」が走りよった県道701号線は、線路の跡ば遊歩道にしてタイルでたどれるようになっとる。

 場所・久留米市三潴町高三潴。久留米市の中心部本町信号から、県道23号線ば約6km南下して大善寺玉垂宮の横ば直進。さらに約1kmで「早津崎」の信号ば右折。約1kmで道路の左手に見える。 取材日 2006.08.22〜2007.09.09

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