このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

門司の「門」ば意識してデザインされた名建築      「鉄道遺跡」の目次へ

 いまの門司港駅は、明治24年(1891) 九州鉄道株式会社が門司港ば基点に、高瀬駅(今の玉名駅)まで開通したとき「門司駅」として開業した。

 明治40年(1907) 九州鉄道株式会社は国有化され、九州の路線は順次鹿児島へと延びていった。

 明治34年(1901)には、門司と下関(馬関)との海峡に関門鉄道連絡船が開通する。700mの海峡ば真っ白に塗られた連絡船は10分間で渡り、当時、海上交通の花形やったゲナ。山陽・山陰本線の終点「下関」と、鹿児島本線の起点「門司」が結ばれ、門司はまさに九州の玄関口として大いに繁栄した。

 
なぜ下関のことば馬関ていうたか。下関周辺はむかしは赤間関(あかまがせき)て呼ばれとって、赤馬関ても書きよった。これば略して馬関(ばかん)ても云うたゲナ。ばかんごたあ話。

 当時の駅舎は200mも岡側の、いま「九州鉄道記念館」のあるあたりやったらしか。「九州鉄道記念館」が展示場にしとる赤煉瓦の建物が、九州鉄道の本社やったっタイ。

 いまの門司港駅がある場所は、まあだそん頃は海やったゲナ。駅も「門司駅」なんては云わず「停車場」でいいよったらしかバイ。こらあ博多駅も「ていしゃば」ていいよったケン、いっしょタイ。

 その頃、門司〜博多間の汽車賃がいくらやったかていうと、「上等(一等)」が2円4銭、「中等(二等)」が1円36銭、「下等(3等)」が68銭やったゲナ。

 米一升が7銭くらいの時代やったっちゃケン、換算すれば「47,000円」「30,000円」「15,000円」に相当する。

 いま、JR九州の門司港〜博多間運賃は、普通(むかしなら「中等」)で 1,430円タイ。

 大正時代になって、門司駅の乗降客も増えてきた。鉄道連絡船のほかに、関門海峡汽船ていうともあって、それぞれが、月に15万人ば運びよったていうけん、門司港駅も賑あうたはずタイ。

 初め作った門司駅では手狭になったケン、駅舎を改築する必要にせまられた。そこで、新しか駅舎は、連絡線との連絡ばようするため、200m海側に寄せて港の近くに建てた。

 これが、いまの「門司港駅」タイ。九州の玄関口やケン、おかしなもんは作られんいうて、イタリアのテルミニ駅ば参考にしなったゲナ。

 「終着駅」ていう映画に出てきたローマの駅タイ。

 当時としては超モダンなネオ・ルネッサンス様式、木造2階建て駅舎が、大正3年(1914)に出来上がった。駅ば降りた人はそのまま地下道ば通って、連絡線の桟橋に出らるうごと工夫してあった。

 この時代の乗客は、運賃によって「一等・二等・三等」に分けられ、待合室は勿論、乗る車両も違うとった。現在のグリーン車があるとと同じタイ。待合室の椅子等も一等は革張りで、三等は板のベンチ、ていう具合にまるっきり違うとったらしか。

 しかし、この栄えた門司停車場も、昭和17年(1942)に門司と下関ば結ぶ「関門鉄道トンネル」が開通すると幹線から外れてしまう。
 トンネルの入り口になった「大里駅」が新たに「門司駅」になって、いままでの「門司駅」は「門司港駅」て名前ば変えられてしもうた。

 鹿児島本線ば北上して本州へ行く列車は、新しか門司駅からすぐ、関門鉄道トンネルに入ってしまう。月に30万人ば運びよった連絡線も、関門鉄道トンネル、人道トンネル、国道トンネル、関門橋、てつぎつぎにでけて、乗るもんが激減し、とうとう昭和39年(1964)には廃業してしまう。

 そやケン、時代に取り残されて門司港は「人の通らん駅と町」になってしもうた。

 いまでも鹿児島本線普通列車の始発・終着駅には変わりなかバッテン、門司〜小森江駅〜門司港間たった5.5kmの盲腸線の終端駅。昔のはなやぎは失せてしまい、レトロで生きる門司港地区と門司港駅としては淋しすぎる。

 この門司港駅、現役の駅舎ながら昭和63年に国の重要文化財指定ば受けた。これは非常に珍しかことゲナ。残された国内最高の駅舎ていうても間違いじゃなかろうケン、それだけに大事にしていかないかんタイ。

     0哩標
 門司港駅にある現在の鹿児島本線の起点ゼロマイル標。右

 九州鉄道記念館前にある初代のゼロマイル標の碑。左

    幸運の手洗い鉢
 第二次大戦中、兵器ば作るために鉄ででけたもんは全部供出させられたが、この手水鉢は供出から免れた。ナシか ? 
 この手水鉢で顔ば洗うて戦争に行ったら、無事に帰ってこれたケン。右

       
帰り水
 門司港駅が建設された当初から使用さとる「水道」は、今でも真鍮のカラン。
 海外から帰国した人、本州から九州入りした人々は、この水ば飲んで「九州に帰ってきた」て実感したゲナ。
 この水こそ「故郷の水」やった。誰が名付けたか「帰り水」 左

       大黒柱
 門司港駅のロビーにある柱は、真鍮で作られとって、今でもピカピカに光っとる。駅が出来たときは人々ばびっくりこいたろう。左

         
貴賓室
 二階の貴賓室につながる階段。当時としてはハイカラな造りでやった。下左

 貴賓室は現在、資料室になっとって時には写真展やらありよる。貴賓室の隣の部屋は御付き人が待機しとったとやろうか。下右

    関門連絡船通用通路
 改札口の右側に「関門連絡船通用通路」の跡がある。ここをくぐって100mもいくと連絡線の桟橋やったていう。

 大志を抱いて上京した人達、結婚して本州行く花嫁、みーんなこの通路を通って行った。

 終戦後、海外から引き上げてきた人達も、不幸にして戦死した人達の遺骨もまた、この通路ば通って帰ってきた。右


門司港駅。開業して今年で116年になる。

「サアサア門司港名物バナナのたたき売り、ご用とお急ぎでない方は、見てらっしゃい、聞いてお帰り、荷物にゃならぬ」・・・さすが門司港駅バイ。駅の入口にバナナの房のぶら下がっとつた。下

 場所・北九州市門司区。九州自動車道を門司ICで下りる。取り付け道路が県道25号線に突き当たっとるケン、これば右折して春日町のトンネルば潜り、道なりに1kmで国道3号線を突っ切れば駅前に出る。   取材日 2007.10.14

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