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複々線で運んでも石炭運びが間あわんやった      「鉄道遺跡」の目次へ
 鉄道遺産


遠賀川橋梁は筑豊本線3線化の遺跡
左から今の上り線。線路ば撤去した旧の上り線。空間があるとこは橋脚も撤去してしもうた旧の上下兼用線。
いちばん右は今も使用しとる旧下り線。写真は北、中間方面ば向いて撮影


昭和47年(1972)の遠賀川橋梁。すでに真ん中の線路は外されとった。

 筑豊炭田
 筑豊炭田は、いまの福岡県北九州市、中間市、直方市、飯塚市、田川市および山田市と遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡および田川郡の6市4郡にまたがっとった。その範囲は遠賀川、嘉麻川、穂波川、彦山川および犬鳴川の流域に広がり、延長47km、東西の幅は約28kmにも達しとって、面積は約787平方kmば占めとったていうケン、想像もつかん広さやった。

 
石炭のはじまりは、文明元年(1469)に、福岡県の三池郡稲荷山(現在の三池炭鉱)で「燃える石」として発見されたていわれとるバッテン、筑豊炭田のはじまりは、それより10年後の文明10年(1478)に、五郎太夫ていう人が、山で焚き火ばしよって、黒か石が燃えるとに気がついたとゲナ。
 直方市史によれば「香月村の金剛山で黒石ば掘り出し、薪とした」ていう記録があるていう。

 元禄16年(1703)に書かれた筑前風土記には「焼石は遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の山野にこれあり、遠賀、鞍手殊のほか多し、そのころ糟屋郡の山にても掘る」て、貝原益軒さんが書いとんなる。

 このころになると筑豊炭田では、石炭(焚石)ば掘り「石がら」にして盛んに利用しとったごたる。江戸時代の中期頃には、四国やら中国の塩田にも船で送られとったことが分かっとる。

 黒田藩では、1700年のはじめころから、遠賀、鞍手、嘉麻、穂波の4郡で、石炭の生産状況ば調べとった形跡があり、その監督には郡役所の役人が当たっとったていう。「焚石会所」ていうとば設けて、藩の管理のもとに採掘する仕組みになっとったらしか。石炭ば運ぶための堀川運河もこのころ藩によって作られとる。

 石炭の採掘は、その地方の農民が農業の片手間で働いとったていうバッテン、「旅人」ていう渡りの坑夫達もおって、これらの石炭ば掘る熟練坑夫達ば「掘り子」て呼んどったらしか。

 明治2年に政府は鉱山ば開放することになり、炭坑の経営が一般民営された。石炭採掘はさらに盛んになって、筑豊炭田では明治年間に約1億トン。大正年間に約1億6千万トン。昭和年間には約5億9千万トンもの石炭が採掘されたていわれとる。

 炭坑内や近隣の町だけで使える独自の金券などもでけて、この頃の筑豊はにぎやかな町やったごたる。
 石炭で大儲けした麻生・貝島・伊藤ていう筑豊御三家もこの頃生まれとうとタイ。

 江戸時代から明治時代にかけ、遠賀川の水運で活躍しよったとが、川船の「五平太船(ごへいたぶね)」。「川ひらた」ても呼んだ。その語源は、石炭ば発見したとが五平太やったケン、石炭ば通称「五平太」ていいよった。その石炭ば運ぶケン「五平太船」タイ。「川ひらた」いうとは、船の造りが浅瀬の多か遠賀川ば運行するとに都合のよかごと、平たくしてあったけんタイ。天保年間には5,000隻。明治18年には9,000隻の石炭舟が、遠賀川ば上り下りしよったて云われとる。

 こうして筑豊炭田の石炭は若松に運ばれていきよつた。
 なし筑豊炭田かていえば、炭田の広がっとった場所が、
前国と前国にまたがっとったけんタイ。

 筑豊興業鉄道は、筑豊炭田(ちくほうたんでん)の石炭ば、積出港の若松まで輸送するために設立された。

 明治24年(1891)にまず若松・直方間ば開通させ、その後筑豊各地へとその路線ば延長していった。

 明治30年(1897)に九州鉄道と合併したケン、筑豊興業鉄道会社は、たった6年の短命な鉄道会社やったバッテン、この鉄道の建設で、筑豊の石炭輸送は、限界ば迎えよった遠賀川の水運から鉄道へと移ったいう訳タイ。

 筑豊は石炭輸送問題ば、鉄道で克服したケン、日本最大の産炭地となって、北部九州の発展ば支えてきたていえる。

 ところが運んでも運んでも、石炭は掘り出されてくるもんやケン、線路が単線では間に合わんごとなってきた。

 離合待ちして、再発車しよったら時間も経費も不経済のうえに、さばくれんタイ。かいうて、鉄橋ば増設はしきらんで、
犬鳴川と遠賀川の間の約5km、植木駅と底井野信号間(いまの筑前垣生駅)ば複線にした。

 幹線(のちの鹿児島本線)でさえ、まあだどっこも単線やったとい、これはなんと
九州初めての複線区間やった。

 このお陰で、列車は追い越しもできる。待たんで離合も出来るごとなって。列車本数ば増やすことがでけたていう。

 明治27年(1894) 折尾〜中間間、植木〜直方間が複線化され、遠賀川にも犬鳴川にも、もう一本の鉄橋が架かった。

 明治29年(1896)には若松〜折尾間も複線化されて、直方〜若松間は通して、上りも下りも専用線になつた。

 こげんまでして頑張ってきた九州鉄道やったっちゃが、明治40年(1907)には国に買収され、国鉄になった。

 そして今回の主題タイ。国有化後の
大正12年(1923) 遠賀川にもう一本鉄橋ば架けて、中間 - 筑前植木ば3線化しとるとよ。

 今回の取材とは関係なかバッテン、ついでに書いとくと、昭和5年(1930)には、本城信号場から折尾の間も3線化して、さらに輸送能力ばあげたていう。

 こうして掘っては運び、運んでは掘った石炭やったバッテン、戦後も昭和29年(1954)あたりになると、石油に押されて石炭は斜陽化してくる。あげん全盛ば誇っとった石炭景気も、しょんとしてクサ、運ぶ量も激減したもんやケン、3線区間も複線に戻して今日まできとるていう訳。

 使われんごとなって、線路は撤去されたバッテン、遠賀川にいまも残る3線の頃のレンガ積み橋脚が、在りし日の繁栄ば偲ばせてくれとる。

 40年前に撮った遠賀川橋梁(下)と、今回取材した遠賀川橋梁(上)定点観測やなかバッテン、ほぼ、おんなじとこから、おんなし方ば向いて撮っとる。
 変わったていえば、電化のポールが立ち並んどると、いまは立ち入り禁止の橋梁上で、むかしは子供達が魚釣りしよること。

 江戸時代初めの遠賀川は、大雨の度に洪水ば起こしよった。 そやケン藩主黒田長政は、元和6年(1620)遠賀川筋の中間から洞海湾へ人工の運河を通すことで、洪水防止・かんがい用水の確保・物資の輸送がでけるごと計画した。これが堀川の開削タイ。

 工事は翌年着工したとバッテン、元和9年(1623)長政が死んだり、藩財政が悪化したりして中断してしもうた。

 それから百年たって、享保15年(1730)の大飢餓ば契機に、工事が再開され、難所の吉田車返から折尾大膳に至る岩山ば(長さ約400m、幅約6.4m、山頂から川底までの深さ約20m)、7年の歳月ばかけて切り開いたていう。

 この工事の動員数延べ10万人以上。そのノミの跡は今も残っとって、当時の苦労が しのばれる。

 その後、遠賀川取水口の中間・総社山ば切り開いて、石唐戸の水門が築かれ、宝暦12年(1762)、堀川は開通した。

 さらに、文化1年(1804)には、寿命(じめ)の水門が築かれ、着工から184年目でやっと洞海湾までつづく12kmの堀川運河が完成したていう訳。
 
 その後の堀川は、いまでも農業用水だけじゃのうして、遠賀川周辺の特産物ば運ぶ水路として利用され、地域の発展に貢献しとる。

 明治時代には石炭輸送の動脈として、多い年には年間10数万隻の川ひらた(五平太船)が、洞海湾目指して堀川ば行き来したていう。

遠賀川から洞海湾へ、黒田藩が掘った運河「堀川」

 福岡県中間市。説明板の左にあるとが、堀川の取水口に作られた「中間の唐戸」 唐戸とは水門のことで、昭和58年に福岡県文化財に指定されとる。

 遠賀川が増水すると、堀川下流域ば水害から守るために、唐戸は閉鎖されるごとなっとる。
そんとき、遠賀川の水勢に耐えられるごと、唐戸は岩盤の地ば選んで作られとった。

 堰戸(せきと)
も天井石の下は表戸と裏戸の二重構造にな っとって、天井石の上は溢水を防ぐための中戸で独特の構造になっとる。
 上家(うわや)は堰板などの格納場所タイ。写真・左。

上2枚・堀川は、折尾高等学校の下ば、折尾まで北上。右へカーブして洞海湾へそそぐ。
左下・石炭ば積み出しよった若松港の岸壁。
下・中間から洞海湾まで、堀川が開鑿されたルート。

 場所・中間市。高速は通行料の勿体なかケン、国道3号線ばずーっと北上。都市高速の香椎東から約33kmで遠賀川橋ば渡り右折。遠賀川右岸の堤防上ば約5km南下。中間の遠賀橋の手前で河川敷の駐車場へ下りる。駐車場の上ば筑豊本線が走り、上下線の鉄橋が並んどる。真ん中にレンガ造りの橋梁が残っとる。陽の向きでは遠賀橋を右折して渡り、渡ったらまたすぐ右折して、左岸の堤防上からも見ることができる。                取材日 2007.09.06

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