このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

輝ける長崎ば象徴しとった長崎港駅         「鉄道遺跡」の目次へ
 九州鉄道遺跡

 人気の上海航路で賑あうたこの頃が、長崎は都市として一番輝いた時期やったちゃなかろうか。この頃のことば「長崎のゴールデンエイジ」いうて、懐かしむひとが多からしかバイ。

 バッテン、時代は暗転する。昭和17(1942)に「長崎丸」が、伊王島の沖でクサ、なんと日本軍の魚雷に触れて沈没。続いて翌年「上海丸」も揚子江沖で兵員輸送船の崎戸丸と衝突して沈没してしもうた。
 船が無うなっては航路もクソもあったもんじゃなか。昭和18年(1943)上海航路は就航以来20年で幕を下ろすことになった。航路が無くなれば臨港線もいらんタイ。臨港線が走らな駅の役目もせんごとなってしもうとった。

 戦後、長崎港駅は旅客・貨物ともに扱う一般駅として残されとったバッテン、旅客列車の運行は行われずに貨物線としてのみ利用されてとったらしか。その貨物扱いも昭和57年(1982)に廃止され、国鉄分割民営化実施前日の昭和62年(1987)3月31日で、とうとう正式にしまえた(終わった)。昭和60(1985)3月には線路も撤去されたゲナ。

港のほうから見た中島川。臨港線は左から走ってきて、ここば鉄橋で越えた。柳の木のあたりに動輪が保存されとる。

 長崎は終着駅。
 ちょっと昔、クールファイブが売り出しの頃には、汽車が着いたらクサ、ホームに「長崎は今日も雨だった」のメロディーが流れよつた。

 これば聞いて「あー、終着駅に来た」ていう感じがあった。

 長崎駅がでけたとは、明治38年(1905)ていうケン、もう100年以上も経っとる。

上・河畔にはここば走りよった蒸気機関車の動輪と、説明板が置かれとる。
下・このモニュメントの向こうに長崎駅がある。

 出島岸壁の、いま複合商業施設「長崎出島ワーフ(ワーフ云うたら格好よかバッテン、岸壁のこっタイ)」いうとのあるあたりが、むかしは上海航路(正式には日華連絡船)の発着所で、これと長崎駅ば結んで、距離1.1kmの「長崎臨港線」ていうとが走りよったと。関門トンネルがでけてからは、船の運行日には特急「富士」が接続しとったていうケン、たいしたもんタイ。長崎〜東京間直通で23時間半やったゲナ。

 終戦で運行されんごとなったけど、当時、上海航路いうたらパスポートなし。26時間で行けて、運賃が3等なら18円、東京に行くより安かったケン、人気があった。

 そういえば、駅長も小学校に上がる前、この船に乗って上海まで行ったことがある。おぼろげながら覚えとるとは、たしか、上海丸いうとと、長崎丸いう船が交代ごうたいで運行しょった。どっちも大きな船やつた。
 ていうことは、子供やった駅長も長崎臨港線に乗ったとかも知れん。

左上・川っぷちの道路には「ここば通りよった」ていう線路が残してある。
左下・護岸には鉄橋の橋台も残っとって、複線やったことが分かる。バッテン柳の下の動輪ちゃ似合ん。
上・下 道路の向こう角にはリンガーハットの店があって、道路ば横切った線路が、店の厨房のあたりに入っていっとるとが可笑しか。

モニュメントの説明板によると、戦後の臨港線は帰国する米軍の捕虜ば港まで運んだり、貨物輸送に使われたりしとったけど、開業して50年でその役目ばしまいかした(終わらせた)とゲナ。

上・記念碑代わりの動輪には昭和19年の刻印があって、スポーク動輪やケン、これはC56かなんかのものやろう。初期に走りよったとは、絵はがきで見ると8620型のごたる。
右・明治44年生まれの市電に沿うごとして、海側ば走りよった。今、線路の跡は道路になったり、公園になったりしとる。

鉄道発祥の地
 日本でいちばん始めに蒸気機関車ば走らせた男がおる。その男、英国人の貿易商で名はトーマス・グラバー。
慶応元年(1865)のこっタイ。英国製の蒸気機関車アイアン・デューク(鉄の公爵)号いうとば、今の大浦海岸通、市民病院の前あたりから松ヶ枝橋の方向にレールば敷いて走らせた。
 集まった長崎のもんなぁ、始めて見る蒸気機関車にたまがって、喚声ば上げて見物したゲナ。商売人グラバーのデモンストレーションやったっちゃろう。バッテン、これが日本近代化の、文字通り牽引車になった。

 グラバーいうたら、正式にはトーマス・ブレーク・グラバーのことで、もともと幕末の政治的な混乱ば利用して、薩摩・長州・土佐の倒幕派ば応援するフリばしてクサ、武器・弾薬ば売りつけよつた武器商人タイ。
 バッテン、明治維新になって武器が売れんごとなったうえ、売っとった金の回収がでけんごとなって倒産しとんなると。その後は高島炭坑ば経営したりして、日本の近代化には功績のあった男ゲナ。
 嫁さんな日本人の談川ツルで、長女はハル、長男は倉場富三郎(倉場はグラバーの語呂合わせ)。
 名がトーマスいうたっちゃ、機関車トーマスとは関係なか。東山手の邸宅はクラバー園になって観光地として有名タイ。

 鳥栖駅もそうバッテン、長崎駅も受難の駅でねえ。
 太平洋戦争の終わり近く(昭和20年4月26日)、2番ホームに停っとった列車がB29の空襲で直撃され、90人もの乗客がやられた。

 それで半壊しとった駅舎は、8月6日の原爆投下で全焼してしもうた。こんとき鉄道は、廃墟の中に救援列車ば入れて、負傷者ば運ぶとに大活躍やったらしか。
 戦争やっケン、仕方なかタイ。いうてしまえばそれまでバッテン、こげな無差別殺人ば、しかも駅長の誕生日にしやがったアメリカ人は、どう考えても許せん。

 以後ずーっと、駅長の誕生日は鎮魂の日になってしもうとる。

 戦争の話しばしだしたら「ぞうのきりわいて(はらわたの煮えくりかえって)」しようのなかケン、止めとくバッテン、これがあるケン、駅長は今でも「鬼畜米英」て思うとる。

 この終着駅てばっかり思うとった長崎駅の先に、
長崎港駅があったなんて、いっちょも知らんやった。なんと昭和5年(1930)に長崎港駅いうとのでけとったとゲナ。

 場所・長崎市出島町。長崎駅から市電にそってふた駅歩くか、市電に乗って出島で下りる。渡ってきた中島川の左岸ば、河口の方に100mも行けば、柳の木の下に幽霊じゃなかバッテン動輪が保存してある。      取材日 2007.12.21

「鉄道遺跡」の目次へ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください