「筑後川昇開橋」はあくまでも通称。ほんなことは筑後若津橋梁(ちくごわかつきょうりょう)ていうとが正しかと。
全長507m、中央部分ば船が通るとき、上下させるごとした可動橋で、完成当時は東洋一ていわれとった。昇開橋の精巧な模型ば、1937年にフランスで行われたパリ万博に出展したら、パリジャンがびっくりこいたゲナ。
橋の設計は、鉄道技師・稲葉権兵衛。橋の中央にある鉄塔の、高さ30mもある可動部分の設計は鉄道技手・坂本種芳(さかもとたねよし)。この坂本さん、手品が趣味で人ば驚かせるとか趣味やったゲナ。そやケン、こげなユニークな発想の橋ば作んなったとやろう。筑後川の広い河口幅に加えて、川底の16mという粘土層に難工事やったらしか。
昭和62年(1987)3月27日で佐賀線が廃線となり、この橋梁も閉鎖された。
筑後川ば管理する当時の建設省からは「いらんもんなら、早う除けちゃりやい」ていわれるし、解体も検討されたとバッテン、地元が一生懸命に橋の存続に動いて残しとった。それがどうかい、いまでは大川市と諸富町のシンボル的存在になっとる。平成8年(1996)からは観光用の人道橋として蘇り、1日8回可動橋が降りて、30分間だけ歩いて往復することが出来る。
橋の両端には公園が整備されとって、現役当時ばしのぶ橋のモニュメントやら、佐賀線に使われとった3灯式信号機やら警報機なども保存されとる。
鉄橋の佐賀県側には、むかし「石塚の渡し」いうとがあって、明治24年に佐賀駅から一直線の諸富国道いうとがでけとった。
明治37年には、この道にレールば敷いて、馬車ば走らせよったゲナ。馬が牽いて走る鉄道やケン、名前が「馬鉄」
便利かケンみんなに親しまれとったバッテン、昭和2年に6人乗りのバスに代わってしもうた。
鉄橋がでけて汽車が走るごとなっても、石塚の渡しは残っとったらしか。戦後の昭和21年で、渡し賃は人が5円。自転車10円。オート三輪(懐かしかもんやねぇ)とトラックが100円やったゲナ。
渡しが無うなったとは昭和32年。1km上流の大中島に諸富橋と大川橋がでけて要らんごとなってしもうた。
写真上と右上は諸富側。右下2枚は大川側。大川側は若津駅のあったところで、むかしは遊郭やらあって賑あうとったらしか。鉄橋のたもとには、最近「大川昇開橋温泉」いう立ち寄り湯まででけとる。
佐賀線が無うなる15年前の昭和47年(1972)7月24日の撮影。9600がのんびりと渡っていきよった。
その昔、みすぼらしか格好の坊主が筑後川の河口にやってきて「向こう岸に渡して貰いたか」ていうたとバッテン、どの船頭も乗船ば断った。当たり前たい。この坊さん無一文やったもん。
そこえ「お坊さん、おれの船に乗らんの」云うて一人の若もんが申し出た。
やっとのことで川ば渡して貰うた坊さんは、対岸に着くと葦(よし)の茂みに入って行ってクサ、一枚のよしの葉ば取って川の中い投げ込みなった。
若っか船頭が「この坊さん、なんばしよんなあとかいな」て見とったら、よしの葉が川に入った瞬間、一匹の魚になった。
びっくりこいた若もんに「これは渡して貰うたお礼タイ。毎年この季節になったら、こればとって生活の糧にしんしゃい」云うて、さっさと去っていきなった。
若もんがびっくりして「えっ」ていうたケン、この魚を「えつ」 坊さんは弘法大師やった。
「えつ」は、カタクチイワシ科の一種で、ナイフのごとシャープで銀白色。体長は30cm程で5月〜8月に産卵のため筑後川に遡ってくる。日本ではここにしかおらん幻の一年魚。
えつと弘法大師
上・普段は真ん中が上がり、背の高っか船でも航行できる。下・夕陽とSLのよか撮影場所やった。