第二次世界大戦が終わった直後の昭和20年(1945)8月22日、ここでとんでもなか事故が起こった。それば肥薩線列車退行事故(ひさつせんれっしゃたいこうじこ)ていう。
当時は情報も混乱しとったし、半分かくしとったケン、あんまり知っとるモンはおらん。
悲劇の背景はこうタイ。
昭和16年(1941)12 月8日未明のハワイオアフ島真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争も、昭和20年(1945)6月には、沖縄がアメリカなどの連合国軍によって占領され、日本の旗色は悪うなってしもうとった。
次は南九州がやられるバイて判断した軍部は、日本各地から多くの兵士ば南九州へ集め、急ピッチで迎撃準備ば進めた。 バッテン、この占領作戦が実行される前の8月15日、日本は降伏して第二次世界大戦は終り、南九州に集められとった兵士たちも故郷に帰れることになった。
吉松駅からも、熊本方面への復員兵ば乗せた列車が発車した。
もちろん当時の列車やケン、蒸気機関車牽引タイ。吉松から人吉へ行くには、急勾配でトンネルばっかしの難所「矢岳越え」ばせなならん。
列車は大勢の復員兵ば乗せるため、一般客車5両の後に「代用」として無蓋貨車ば8両連結しとった。それでも早う帰りたか復員兵が殺到して、客車の屋根にまで乗って超満員。
列車は定員オーバーで前だけでは坂ば引き上げきらんケン、、後ろにも補助用の蒸気機関車ばつけ、 後ろからも押して急勾配ば登りきろうとした。
しかし物資不足やった当時の石炭は出力不足、やっとかっとなんとか真幸駅の手前にある全長618mの山神第二トンネルまで登ってきた。
ところが、列車は勾配ば登りきれず、とうとうトンネルの中で停ってしもうた。
トンネルの中で蒸気機関車が停まったらどうなるか。
場所の説明ばしとこう。
吉松駅(標高224m)ば出た肥薩線は急勾配ば登ってやっとこっとで真幸駅(385m)に着く。
ここでいっぺんには登れんケン、スイッチバックして矢岳駅(536.9m)まで登る。
これが「矢岳越え」ていう九州一の難コースやった。
真幸駅までの間にトンネルが四つ。三番目のが「山神第二トンネル」で、勾配もきつかし、長さも618mて一番長か。
トンネル内は機関車が出す煙がアッというまもなく充満。 屋根に乗っとるモン、貨車に乗っとるモンはもちろん、 客車の中のモンも煙で苦しくなるばかりタイ。
とうとう我慢しきらんで、多くの乗客が列車から飛び降り、線路つだいに走ってトンネルから脱出しようとした。
運転士は、このままやったらみんなが煙でやられてしまうと思い、トンネルから出るため、列車ばバックさせることにた。
前の機関車の運転士は、乗客が列車ば降りて、線路ば逃げよることには気づいとらん。 後ろの機関車の運転士はていうと、 すでに煙でやられて気絶しとる。車外へ出た乗客へ連絡のしようもなかった。
バックしだした列車は、次々にトンネルから逃げ出しよった乗客ば轢き殺してしもうた。
ふるさとに帰るとば目前にしとって、53名の命がトンネルの中で無惨にも散ってしもうた。
上・山神第二トンネルの真幸側出口。列車はここまで出てききらんやった。
事故の17回忌に地元婦人会がトンネルの人吉(真幸)側出入り口付近に慰霊碑ば建てた。
線路際のその場所は、事故当時、トンネルから遺体が運び出され埋められたとこやった。
いま人気の矢岳越え「いさぶろう・しんぺい」号は、この場所ば通るとき、慰霊碑の見えるごと徐行運転ばして、車内アナウンスで、この悲しか話ばして聞かせる。
九州に鉄道が走り出して以来の大きな事故が三つある。
ひとつは、明治31年(1898)4月8日 8時ごろ、九州鉄道(後に国有化された)幸袋線の幸袋駅構内で貨車入れ替え作業中やったアメリカ製ボールドウィン蒸気機関車のボイラーが破裂。
乗務員2名と駅員1名が殉職し、踏切におった歩行者4名、民家のなかに居った1人が負傷した。
また吹き飛んだ車体で約120mも離れとる民家3軒も破損した。
ふたつめは、昭和5年(1930)4月6日、久大本線の鬼瀬駅〜小野屋駅間で、バック運転しよった機関車のボイラが破裂。
煙室扉が開き、熱水と飽和蒸気が客車内に吹き込み、23名が死亡した。
そして三つ目が、この肥薩線の山神第二トンネル事故やった。
上・地元の婦人会が立てた記念碑。このあたり一帯に死体が運び出されたていう。
中・恐る恐る中に入っていった駅長の耳に、悔しそうなうなり声が聞こえてきた。
気のせいか、心霊スポットでまぁーだ霊が浮かばれんでおるとか。
下・慌てて逃げだした駅長、出口でホッ。
直線で200mばかり先に「山神第一トンネル」が見えた。