このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

明治の根性が全長2kmものトンネルば掘った     「鉄道遺跡」の目次へ
 鉄道構築物  

 矢岳トンネルはクサ、肥薩線のいちばん高っかとこにあるケン、簡単には近づけん。

 熊本側(矢岳駅に向いた北の口)は、踏切から50m線路伝いに歩けば行けるけど、宮崎側の入り口に行くとは簡単じゃなか。

 真幸駅から線路沿いに歩けば、トンネルば四つ抜けて、たっぷり4kmはある。

 矢岳高原県立自然公園の道が、いちばん線路の近くば通っとっちゃが、山地図でみたら100mぐらいの標高差があって、しかも道はなかケン、ヤブコギさせられる。

 熊本側からトンネルの中ば通れば、トンネルの長さ2km歩けばよかバッテン、真っ暗やし、幽霊の出る話もあるし、もし途中で列車の来たらお陀仏タイ。

 バッテン、どうしても
真幸側の写真が撮りたか。(矢岳側の写真は撮り易かケン、どこにでも、だれもが発表しとる)
 
「しんぺい号」の元になっとる、鉄道院総裁後藤新平「引重到遠」の石額が撮りたか。

 ・・・駅長は陽の向きも考えて、吉松発14時48分の「しんぺい号」に乗って運転席から撮ることにした。

 その訳ば話したら、若っか運転手さんはトンネルの前で徐行運転までしてくれた。  

 肥薩線は、はじめ鹿児島線として明治42年(1909)に開通した。八代から人吉・吉松ば経て鹿児島までタイ。(いまの鹿児島本線がでけたとは、18年後の昭和2年(1927)。それ以後、山岳ルートの八代・隼人間ば肥薩線と呼ぶごとなった。

 この開通で門司港から鹿児島まで、九州は一本の鉄路で結ばれた。ということはバイ、日本の鉄道が北海道から鹿児島まで貫通したていうことになる。新橋と横浜間に初めて蒸気機関車が走ってから37年後のことやった。

 ところでなし八代から鹿児島までの路線に、比較的平坦で作りやすか海岸沿いの水俣・川内ルートば採らず、わざとのごとむづかしか山岳ルートば選んだとか。

 それは、将来宮崎へも便利ということもあったバッテン、海岸沿いに鉄道ば作れば、海からの攻撃に弱かていう国防上の心配からやった。大変な難工事が予測されながら、あえて山岳ルートば選択した戦時の緊迫感がうかがえるじゃなかね。

 熊本・宮崎の県境に屏風のごと立ちはだかっとる加久藤山脈の、矢岳山(739m)のクサ、どてっ腹ばくり抜く大工事。
明治39年9月から掘り始めたとバッテン、トンネル全体が1kmで25mの傾斜、凝灰岩のため湧水が多うて難工事やった。

 機材の運搬はトラックやらまあだなかったケン、馬タイ。湧水のためなかなかウマくいかず、荷物運びの馬が溺れたりしたこともあったらしか。

 また道路から遠かケン、材料などの運搬やら労務者の確保にも困ったらしか。それでも42年11月21日には、人吉〜吉松間ば予定通りに完成したっちゃケン、明治の力は凄か。

 当時の技術力からいえば、とんでもなか難工事やったケン、開通したときには、よっぽど嬉しかったっちゃろう、地元の協力と血と汗の功績ば称えて、鉄道の最高責任者やった逓信大臣・山形伊三郎が、トンネルの矢岳側入口に
「天険若夷」。吉松側のポータルに、鉄道院総裁、男爵後藤新平が「引重致遠」ていう縦1m、横2mの石額ば掲げた。

 だけん今、人吉から伊三郎の額に向かうて行く下り列車が、人気の観光列車
「いさぶろう号」でクサ、吉松から新平の額に走ってくる上り列車が「しんぺい号」てなっとうとタイ。
 
 これは両方合わせれば「テンケンイノゴトシ、オモキヲヒキイテ、トオキニチス」て読むと。

 「天下の難所ば、平地のごとしたお陰で、多くの人や重たか貨物などば、どんどん遠かとこに運ぶことが出来るようになった」ていう意味ゲナ。

 昔の偉かヒトはやったことも凄かバッテン、漢文も上手かったとねえ。今の大臣どもは抜け作ばっかしでクサ、バンソッコウは貼れても、漢文に書くごたあこともしいきらん。

 社保庁長官やら、年金問題でどげな漢文ば書くか書かせてみたか。公安調査庁の長官やったともタイ。

  
これは人吉側の入り口に上げられた石額。右から読むとバイ。

 ポータルいうたら入り口とか門のこと。ポート(港)から来た言葉。そやケン、ヤフーとかグーグルとかのポータルサイトていうとは、インターネツトの入り口のこっタイ。

矢岳第一トンネル。正確には長さが2,096.17m。坑口は煉瓦と石。両側に立つピラスター(柱型)に明治の威厳。

トンネルの入り口から矢岳側ば見たところ。矢岳駅が肥薩線で一番高いケン、トンネルの方へは下っとる。

 列車は真幸駅をスイッチバックで登っていく。昭和47年の水害で駅も周辺の集落も流されてしもうた。
 ホームに、そんとき山から転げ落ちてきた大きな石が、記念に残されとる。(上)
 矢岳を越えた「しんぺい号」が矢岳駅に着いた。矢岳駅は標高が536.9mと肥薩線の駅では一番高っかところにあるケン、こっから線路は両側に下がっとる。(右)

 矢岳駅の構内には、人吉市SL展示館があって、肥薩線で最後まで頑張ったデゴイチの中から、170号機が1両大事に保存されとる。観光列車「いさぶろう・しんぺい号」は、ここで10分止まって、乗客に高原の空気とSLの見学ばサービスする。

 下の写真は、矢岳トンネルから飛び出してきたデゴイチ
 SLの矢岳越えも最後に近い頃(1972.3.12 14:40)

こらあなんの役にも立たんやろうけど、
人吉から吉松まで山ん中に線路ば通すため、掘ったトンネル全部で
21
 (人吉駅)〜水無第一〜水無第二〜立石第一〜立石第二〜横平〜(大畑駅)〜大畑〜大野第一〜大野第二〜大野第三〜
 大野第四〜(矢岳駅)〜
矢岳第一〜矢岳第二〜矢岳第三〜踵蔓(かがづる)〜中竹〜後平〜(真幸駅)〜山神第一〜
 山神第二〜松尾〜丸塚〜永迫〜(吉松駅)

 場所・宮崎県えびの市昌明寺。人吉市の人吉橋ば渡り、大口へ行っとる国道267号線ば約5km走る。古仏頂から左折して山道にはいる。途中大畑(おこば)への分かれば右折してさらに山道。左手に矢岳駅ば見たら300mで、県境の直ぐ先が踏切。そこから線路ば歩いて約50mで矢岳側のトンネル入り口がある。             取材日 2007.3.25
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