このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

円応寺
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場所・武雄市

 円応寺は永世14年(1517)に了然禅師が開山した曹洞宗の寺。了然さんいうとは加賀国大乗寺で修行した僧やった。

 武雄領主の菩提寺で文禄年中の1596年頃、後藤貴明(のりあきら)によって現在地に再建されたていわれてとる。

 もともと後藤家は藤原鎌足の子孫で、藤原氏やった。章明の祖父が肥後守やったケン、肥後と藤原の一字ずつばとって後藤ば名のり始めたて云われとる。
 武雄鍋島家は20代まで後藤ば名乗っとった。前九年の役(1051〜62)で戦功のあった後藤章明が、ここの地頭となったとが始まりらしか。

 その後、後藤氏は、勢力ば広げ、戦国時代には杵島郡内の有力豪族に成長した。

 19代貴明の時、勢力は最大となったとバッテン、家督争いによる混乱のため、龍造寺隆信(鍋島藩の前身)の下に吸収されてしもうた。
 ここは桜も見事バッテン、参道にふたつある石門が珍しか。

 ひとつは
「めがね門」といわれとる門で、文化14年(1817)に大串儀左右衛門ていう人が、住職の頼みば一言で承諾して建立しなったもんやケン、別名「一言即諾の門」てもいわれているとゲナ。
 門の大きさは、幅4.85m、厚さ1m、高さ4.17mで、屋根は切り妻に仕上げてある。

 アーチの部分は、下から八段目から切石の組み合わせ。

 背面に残っとる銘文から、建立は文化10年(1817)いうことが分かる。もう200年近うここに立っとる訳タイ。
 アーチの上にある扁額の「西海禅林」の4文字は、28代武雄城主の鍋島茂義(しげよし・1800〜1863)が16才の時に書いたもんゲナ。

 鍋島茂義は、科学の好きな領主で、佐賀藩主鍋島直正から精煉方で蒸気船建造の責任者ばまかされとるほどやつた。

 これは茂義がすでに蒸気機関についての知識ば持っとったいうことの表れやろうケン、佐賀の田舎の領主にしては「進んどった」わけ。
 道路から入ったすぐの石門は、鳥居型の石門で江戸時代寛政10年(1798)の建立。

巾の内径が2.76m、高さが5mで禅寺らしく堂々としとる。

 安山岩ば基礎石に使うて、几帳面取りの角石ば2個積み上げて柱にしとる。

 貫(ぬき)は虹型の一本もので、正面に文様が彫られ、その上に「白雲閣」の扁額があがっとる。
 いちばん上の笠石は三本組で、強うそっくり返えっとって、両端は渦巻きになっとる。渦巻き型の笠石ちゃ珍しか。

 右柱の銘文に施主や願主の名が彫られとって、石工が塩田住の筒井興四右衛門・幸右衛門であることが分かる。
 石造りの鳥居型石門としては、臼杵の法音寺(明治10年)があるくらいで、こっちのほうが古かし、建築史上価値の高っかもんらしか。

 武雄市の重要文化財に指定されとる。
 300mの参道は桜トンネルで、普段は静かなもんバッテン、満開の時期には観光バスで来る客も多か。

 寺の背後には標高239mの柏岳いう山があって「鏡山」ても言われとる。

 円応寺の左に登山口がある。境内ば抜けたら、すぐに
柏姫御陵(て云うても、朽ち果てた祠がひとつあるだけ)がある。

 柏姫とは、清和天皇(在位858〜876)の叔母にあたるっちゃが、この地で死になったケン、鏡といっしょに葬ったとゲナ。

 柏姫がなし九州にまで来なったとか。確かなことは分からん。

 清和天皇の后(おきさき)藤原高子と姉妹で、父は当時太政大臣で権勢ば誇っとった藤原良房やったて云われとる。
 清和天皇には惟喬親王(これたか)ていう異母兄がおったとに、そればはずして異例の即位がおこなわれた、ていうことやケン、柏姫の九州への旅は、この即位ば実現するための祈願の旅やったとかもしれん。

 英彦山、高良山、香椎宮と巡拝し、この村に来て柏岳の山麓に庵ば結んどなったそうやが、やがて病気になりここで亡くなったていう。

 
柏岳、鏡山と呼ばれるのは、この故事による。

写真・柏姫御陵は朽ち果てて可哀そか。
 駐車場は無料で、花の時期には茶店が出る。
「葛きり」ばお茶うけにして花見しなからの一服は旨か。
 九州高速長崎道ば武雄ICでおりる。国道34号線へは入らず、旧道ば西へ、長崎本線の高橋駅ば通過。次の武雄温泉駅で右折。

 狭い道ば500mほどで広い通りに突き当たるケン、左折すれば300mで右にお椀ば伏せたごたる「柏岳」と円応寺の石門が見えてくる。

 車は第一の石門ばくぐり、参道ば300mほどで右に駐車場がある。
 
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