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ぐるり壱岐の島
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場所・長崎県・壱岐市
    
 
猿岩

 壱岐の観光パンフレットに、必ず顔出しとるとがこの猿岩タイ。
 西海岸・黒崎半島の突端にある。


 直ぐそばには「黒崎砲台跡」ていうともあるバッテン、それは「九州遺産」のほうで紹介予定。

 撮影は4月10日の午後5時。陽が傾くとば待っとって海岸まで降りていき、目ん玉に夕陽ば入れた。

  

 

 背中に哀愁ば漂わせたこの猿岩。
高さ45mの玄武岩でてけた海蝕崖タイ。

 おおむかし、神さんが壱岐の島ば産みなったとき、島が流されんごと、八本の柱ば立てて繋ぎなったとゲナ。

 その柱は折れてしもうたバッテン、岩として残り、そのひとつが、この猿岩ていう言い伝えがある。

 見る角度にもよるけど、そっぽ向いた猿そっくりで、ようでけとる。
 自然のいたずらには、ただたまがるしかなか。






 
駐車場には、郷ノ浦町のアンテナショップ「お猿のかご屋」があって、生き(壱岐)た情報ばホイサッサて教えてくれる。

 太郎礫次郎礫(つぶて)

 むかし壱岐には5千匹の鬼が住んどって
それば
百合若大臣(ゆりわか)が退治しなったとゲナ。

 
その戦の時、鬼達は巨石ば投げて戦うたそうやが、鬼の太郎と次郎が投げ捨てたままの大石ていうとが切り立った絶壁の上に転がっとる。

 ここは危なかけんやろう、入り口には標識がなか。

 
どうしても行きたか人は、猿岩の南にある「壱岐出会いの村」で聞いて。


                         黒崎半島の断崖とその上に転がっとる礫石
 勝本城趾

 天正19年(1591)秀吉が朝鮮出兵に備えて、平戸の松浦鎮信に作らせたのが勝本城。

 一の門と二の門の間の枡形と「鏡(かがみ)積み」て云われる技法の石垣が残っとって、
国指定の史跡


 
海抜79mの天守跡からは壱岐のいちばん北の港・勝本港が眼の下に見える。
                
 御柱

 蕉門十哲のひとり
河合曾良は、生まれが諏訪(長野県)で、死んだとが勝本町ていう縁からクサ、勝本町は諏訪市と友好都市やったゲナ。

 それで諏訪神社の祭りで使うた御柱が
諏訪市から贈呈されて、勝山公園に立ててあるとバッテン、もう上の方は折れてしもうとった。

 そばに曾良の句碑がある。

 行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原

 河合曽良の墓

 曾良は芭蕉に最後までついて世話焼いたとバッテン、芭蕉の死後、巡見使の随員として壱岐に来たとき、具合が悪うなってクサ、

 宝永7年(1710)、勝本港の見える中藤家の一室で死んでしまいなった。

 その墓が勝本城の中腹、能満寺にある。
 神功皇后の馬蹄石

 神功皇后ば祀った聖母宮(勝本)の近くに神功皇后の馬蹄石ていうとがある。

 二つに割れた一畳ばかりの石の上に、よう見てみると蹄のような凹みがある。

 神功皇后は三韓征伐の時、呼子の馬渡 (まだら)島から、印通寺に上陸して、壱岐の真ん中ば通り抜け、勝本から対馬に渡って行っとんなると。

 「風早し(順風バイ)」云うて、出て行き、勝って帰って来なったケン「勝本」タイ。
 壱岐の土台石

 勝本港の東。「イルカパーク」の近くに、天ケ原海岸ていうとがあって、ここにそそり立つ岸壁が、勝本層て呼ばれとる壱岐の土台石ゲナ。

 砂岩と頁岩でできた約2500万年前の新第三紀層の上に、凝灰角礫岩と火砕流堆積物が乗り、その上ば玄武岩が覆って壱岐の島が出来上がっとるとゲナ。

 バームクーヘンのごと積み重なった断層ば見とるとよう分かる。
 側に寄って触ってみたら、断層はもうボロボロで、今にも崩れそうやった。
 男岳(おんたけ)神社の石猿群

 壱岐の右肩あたり、芦辺町に男岳ていう山がある。壱岐では二番目に高い山バッテン、高いいうても156mタイ。

 そのてっぺんにあるとが男岳神社で、祭神は猿田彦命。アマテラスの命ば受けてニニギが天下って来なったとき、道案内ばした神さんタイ。

 この神社に願ばかけて成就したら、 石猿ば奉納する習慣があって、たくさんの猿が並んどる。狛犬の代わりに猪口もった猿までおった。
 はらほげ地蔵

 壱岐の東海岸・八幡浦に、赤いあてしゃん(腹掛け)ばした六体の地蔵さんが海の中に(塩が満ちたとき)おんしゃる。

 六地蔵いうたらクサ、お釈迦さんが死にんしゃってから、56億7千万年後に弥勒菩薩さんが出てきんしゃるまでの間、現世に仏が不在となってしまうケン、

 その間、
六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)ば輪廻する衆生ば救う菩薩さんのこっタイ。

 このお地蔵さん。あてしゃんの下に丸い穴が開いとるケン「腹ほげ地蔵」て言われとると。

 地蔵さんの由来は分からんし、何のための穴かも分からんバッテン、この近くでは海女漁が行われとったケン、海難者の霊ば弔ったとか、 疫病がはやったケン祭ったとか、いくつかの言い伝えある。

 だアレも居らんやったケン、あてしゃんばめくって、駅長が腹ば探ってみたら六体のウチ二体だけは、小さな穴が確かにほげとった。
 左京鼻

 八幡半島の突端にある左京鼻は、海蝕断崖が1km も続き、先端は芝生の広場になっとる。

 玄武岩の柱状節理が海から突き出した白い岩礁はダイナミック。これも八本の柱の折れたひとつやろう。

 ところで、あの白かとはなんじゃろうかい。鳥の巣になっとるケン、多分鳥がまりかぶった糞やろう。
 なし「左京鼻」て云うかていえば、江戸時代の初め、旱魃が続いて人々が苦しんどったとき、陰陽師の後藤左京と龍蔵寺五世日峰和尚ていうとが、ここで雨乞いばしなつたとゲナ。

 一心に祈祷しなったとバッテン、雨は降ってこんやった。 左京は責任ば取ってここの断崖から身ば投げようてした途端、大雨が降ってきたていう。

 この話から左京鼻て云うとらしか。
 鼻とは、ハナで突端のことタイ。

 安国寺


 元寇でひちゃがちゃされてしもうたもんやケン、暦応元年(1339)足利尊氏が、死者の冥福と天下の安泰を祈るために、全国六十六州と壱岐、対馬の両島に「安国寺」の建立ば命じた。

 そのひとつがこの安国寺で、前からあった海印寺ば改修して当てたとゲナ。

 正式名称は、臨済宗大徳寺派、老松山安国海印禅寺

 開山は京都南禅寺の無隠元晦禅師(1283〜1358)。「師子窟」の扁額が掛かった仏殿は二重屋根で珍しか。

 中に入らせて貰うたら、普通、仏さんなあ錫杖ば真っ直ぐ立てて持っとんなあとに、ここのご本尊は、拝みようもんに突き刺すごと向けとんなった。

 なんか悪かことして「お前やあ なんばしょっとか」ておごられようごたあ気のして、身の引き締まった。

 境内には樹齢1000年て言われる大杉がそびえとる。形が美しゅうて樹の勢いも良か木やった。

 また大きな銀杏の木もあって、その下には座禅石ていう蓮華の葉のような大石もあった。

 安国寺宝物展示館には、国重要文化財の「高麗版大般若経」があるてきいとったケン、見たかったっちゃが、あいにく駅長が行った水曜日は休館やった。
 原の辻遺跡

 芦辺町と石田町にまたがる地域は弥生時代(約2200〜1700年前)には大規模集落があった所ゲナ。

「魏志倭人伝」に記載されとる一支国(いきこく)の王都やったろうて云われとるとタイ。国の特別史跡になっとる。

 中国大陸・朝鮮半島やら、国内各地と の交流ば示す土器・青銅器などの貴重な出土品の中に「ムンクの叫び」に似た
人面石がある。

 鬼の足跡
 東シナ海に面して突き出した牧崎半島の先端に、ポッカリ開いた大穴があって、これが鬼の足跡て呼ばれとる。穴は直径110mもあって、洞窟で海と結ば れとる。
 むかし、デイていう大鬼が、鯨ばふんどしで掬い取ろうとして、踏ん張った時でけた足跡ゲナ。
微笑むゴリラ岩

 
足跡に続く丘の北側には、照れくさそうにしとるゴリラそっくりの岩があって微笑ましか。黒崎半島の猿岩の方ば向いてウインクしよるとゲナ。

 この一帯、平均30
mの断崖で荒々しい海岸線バッテン、天然の芝生におおわれ広々として気持ちよか。
 福岡からはベイサイドから、九州郵船の対馬航路がある。

 車積むならフェリーで2時間20分。人間だけならジェットフォイルで70分で
郷ノ浦港に着く。

 空港もあって以前は福岡便もあったバッテン、いまは長崎からしか飛びよらん。

 壱岐市は金回りの良かとか、道路は四通八達(古か言葉やねえ)しとって、何処へ行くにも便利か。

 ただ舗装は立派にでけとるバッテン、狭かととカーブが多く、アップダウンばっかり。

 中央線もなか山道ば壱岐のねぇちゃんが軽で飛ばして来るケン危なか。
 まあだこれ以外にも見るところはいっぱいあるバッテン、今回はここまで。
 壱岐の観光は歴史もバッテン、やっぱあなんて云うたっちゃ自然がよか。それにどこいったっちゃタダで駐車料も取られんとがよか。壱岐に行きさえすればぜーんぶ(施設以外)タダいうとがいちばん気に入った。
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