このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
岩戸山古墳 | |
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岩戸山古墳は、北部九州では最大の前方後円墳で、墳丘の長さが約135m、後円部の径が約60m 前方部の幅約90m、高さ約17m、周堤を含めると185mにもなる大きなもんタイ。 古墳の東北部には、祭祀が行われとったらしか別区(上の写真)がある。。 | |
場所・福岡県八女市 吉田 その規模や内容がクサ、「筑後風土記」に書かれとることとピッタシ合うもんやケン、古事記やら日本書紀に登場する「筑後国造磐井(いわい)」が生前に造った墓やろうということになっとる。 造ったもんと造った年代が、はっきりしとる古墳として、昭和30年に国指定となっとうとバイ。 | |
古墳内部については、まあだあんまり、ようわ分からんとゲナ。 | |
ところで、その磐井というおっさんやが、日本書紀によれば筑紫国造ていうことになっとる。 | |
527年。継体天皇は近江毛野(おおみのけな)に兵6万ば預けて任那(朝鮮南部)へ派遣しようとした。 任那は倭国にとって、軍事的にも経済的にも重要やったけんタイ。 この計画に磐井が逆らうたもんやケン、それば知った新羅(朝鮮北部)が、磐井に袖の下ば送って「任那への進攻ば妨害してくれろ」て頼んだちゅうわけよ。 ようするに磐井と新羅は通じとった訳タイ。 | |
大和朝廷では、任那への進攻より、磐井の征伐の方ば先にせないかんバイ云うことになって、物部麁鹿火(もののべのあらかい)が大将になって九州へ下ってきた。 528年11月11日、いまの小郡市あたりで、磐井軍と大和朝廷軍が交戦して、激しい戦闘の結果、磐井軍は負けてしもうた。 日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたことになっとるバッテン、筑後国風土記によれば、磐井は豊前に逃げだしたてなっとる。 | |
磐井の息子の葛子は、領地の一部と、糟屋郡にあった屯倉(米倉やね)ば大和朝廷に寄進して許してもろうたとゲナ。 (ここの歴史資料館は撮影自由。だいたい写真はいけませんていう資料館が多かとに、感じのよか資料館やった。流石、裕福な八女だけあって、おおらかで非常に良か。こげなよかことはヤメんで欲しかねぇ) | |
筑後国風土記では、磐井が逃げたことになっとるもんやケン、大和朝廷の軍は腹いせに、磐井が生前作っとった自分の墓(岩戸山古墳)の石像の手や頭ば叩き割ったていう。 その祟りで、古墳の近くのもんが病気になったり、よそもんが足ば踏み入れたら、コロッと死んだりしよったゲナ。 | |
福岡からは九州高速道を広川ICで降りる。 取り付け道路が、国道3号線まで案内するので、3号線を右折。 八女市の方へ約3km南下して、案内板のある信号で右折すれば、200mで右に駐車場がある。 | |
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