このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
木屋瀬宿(こやのせしゅく) | |
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場所・福岡県北九州市 八幡西区木屋瀬 江戸時代、徳川幕府は江戸ば中心に街道ば整備してクサ、全国に宿駅ば作った。これば宿ていう。 街道には五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)と脇街道があって、豊前小倉と長崎ば結ぶ長崎街道は、九州で唯一の脇街道やった。 | |
57里(約228km)の長崎街道には、25ヶ所の宿場があって、このうち福岡藩内の黒崎・木屋瀬・飯塚・内野(筑穂町)・山家・原田(筑紫野市)の各宿は、筑前六宿て呼ばれ、いつも賑おうとったゲナ。 木屋瀬宿(こやのせ)がいつ開かれたとかはよう分からんげなバッテン、寛永12年(1635年)、参勤交代制の確立で、この頃に多分、街道やら宿場の整備が進んだっちゃろう。 左は、記念館の宿場模型ばクサ、コソーッと撮してきたとバッテン、下が西口(飯塚側)。上で直角に曲がって、右上が東口(黒崎側)。 家は税金が間口の巾で決まりよったケン、巾が狭うて、奥に長い。うなぎの寝床タイ。 | |
1、が追分道標 2、が西の構口。下の写真のご と、両側に石垣があった。 5、が旧高崎家 9、に里程標があって本陣跡。 ここで道はくの字に曲がって 17、の東構口にいたる。 お寺やら神社やら、歴史の詰まった見所があるバッテン、それは自分の足で歩いちゃんしゃい。 | |
街道と直角に両側石垣。その上に白壁の練塀が乗っとったゲナ。 方角とは関係なしに、江戸の方が上りで東、反対が下りで西。 東上、西下ていうやろう。 西構口には追分道標があって、これには「従是(これより)右赤間道、左飯塚道、元文3年(1738年)」て刻まれとる。 赤間道とは博多方面に向かう唐津街道、飯塚道が長崎に至る道で、ここ、遠賀川の渡しが分岐点やった。 | |
高崎家は屋号が柏屋。本家の7代目四郎八が分家し創立した家。 四郎八は文政8年(1835)から町年寄ば務め、翌年には大庄屋にまでなっとんなる。 嘉永の頃は絞蝋業。明治には醤油醸造業ばしよんなったゲナ。 放送作家の伊馬春部は、ここの5代目として生まれ、新宿ムーランルージュの座付き作者となってから人気作家になった。 ラジオドラマ「向う三軒両隣り」は代表作のひとつやった。 | |
村庄屋跡 木屋瀬には、村全体ば統括する村庄屋、旅籠など宿内ば統括する宿庄屋、川船ば管理する船庄屋ていう3つの庄屋があったゲナ。 松尾家は問屋場の人馬支配役となった後、安政5年(1858)に村庄屋ば勤めなったていう。 | |
宿場はクサ、東構口から西構口まで約1100mの街道で、裏通りのなか一本道。 | |
木屋瀬宿には、オランダ商館員でドイツ人医師のシーボルトやケッペル、測量学者の伊能忠敬だけでのうて、白象が泊まったという記録もあるらしか。 冷水岳にも、「白象が通った」ていう記録のあるケン、こらあ、ほんなことバイ。 長崎から、将軍に献上する象がはるばる、冷水峠ば越して来たっちゃねぇ。象も(どうものシャレ)ご苦労さん。 | |
東構口から見た本陣、御茶屋跡この突き当たりに、いま記念館がある。 「みちの郷土史料館」は展示のしかたも工夫してあって、木屋瀬と長崎街道の歴史がよう分かるごとなっとる。 おまけに、ボランティアの説明員さんがおらつしゃってクサ、親切に解説してくれる。 北九州市もやるバイ。大福岡もオリンピックやら、夢の久作のごたあこと云わんで、もちぃーったあ文化にも金使うたらどうな。 | |
東構口にある「江戸あかりの民芸館」 町全体がむかしの木屋瀬ば残そうとして、統一されとるとがよう分かる。 この二階の青銅の窓なんか、よう残っとるねえ、て感心するバイ。 あ、そうそう。長崎におった黒田藩の御用商人で、豪商の伊藤小左衛門。 ご禁制の密輸(抜け荷)が幕府に見つかって、一族郎党全員が獄門打ち首になったっちゃが、小左衛門が木屋瀬の生まれやったゲナ。 町ば歩きよったら、伊藤さんていう家のあった。子孫やろか。 | |
東構口は、黒崎宿方面からの入口で、ここには遠賀川から取り込んだ岡森用水路が通っとる。 東構口跡の両側に建っとる松本家は、木屋瀬の町家の遺稿として貴重な存在ゲナ。 かつての構口の石垣に変わって、今では焼瓦塀になっとった。 | |
福岡からは九州道ば八幡ICまで乗ってもよかバッテン、いまはもう、3号線が流れよるケン、都市高速の香椎出口から真っ直ぐ遠賀川まで走った方が安あがり。 遠賀川渡って右折。唄の「遠賀土手いきゃあ、雁が鳴くう」じゃあなかけど、右岸ば南下する。 中間の中間大橋と、遠賀橋ば通過して、新幹線と九州道の下ばくぐれば、すぐ左に「長崎街道・木屋瀬宿記念館」の駐車場がある。 すぐ先の中島橋まで行ったら、行き過ぎ。そんときは、左折、左折して旧道ば戻れば、記念館の正面に突き当たる。 | |
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おまけ(木屋瀬に伝わる昔話) カッパの秘伝薬 むかしむかし、木屋瀬が長崎街道の宿場町として栄えるずうっと前の話タイ。 しかも、ここのカッパは、いたずら好きで、子カッパ達はクサ ある日、わんぱく 子カッパが、釣り糸ば作ろうとしてクサ、 尻尾の毛の一番長かとば「えいっ」て力いっぱい引っ張っとうとタイ。 「ボキッ」 そこへ、カッパの長老が通りかかったっタイ。 「ほうら見てみろ、いつもわるそうばっかししよるケン、こんな目にあうとタイ」 木屋瀬には、貧乏やったバッテン、とても親切な年寄りの医者がおって、 書き付けには、カッパらしゅうない達筆で 伝 「こげな薬は、見たことも、聞いたこともなか」て思うたバッテン、 今まで「いたかぁ、いたかぁ」て泣きよった子カッパが、 心配そうやった仲間のカッパ達も、大喜びタイ。 その後、このカッパ秘伝の骨継ぎが有名になって |
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