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木屋瀬宿(こやのせしゅく)
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場所・福岡県北九州市
    八幡西区木屋瀬


 江戸時代、徳川幕府は江戸ば中心に街道ば整備してクサ、全国に宿駅ば作った。これば宿ていう。

 街道には
五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)と脇街道があって、豊前小倉と長崎ば結ぶ長崎街道は、九州で唯一の脇街道やった。
 57里(約228km)の長崎街道には、25ヶ所の宿場があって、このうち福岡藩内の黒崎・木屋瀬・飯塚・内野(筑穂町)・山家・原田(筑紫野市)の各宿は、筑前六宿て呼ばれ、いつも賑おうとったゲナ。

 
木屋瀬宿(こやのせ)がいつ開かれたとかはよう分からんげなバッテン、寛永12年(1635年)、参勤交代制の確立で、この頃に多分、街道やら宿場の整備が進んだっちゃろう。
 



 左は、記念館の宿場模型ばクサ、コソーッと撮してきたとバッテン、下が西口(飯塚側)。上で直角に曲がって、右上が東口(黒崎側)。

 家は税金が間口の巾で決まりよったケン、巾が狭うて、奥に長い。うなぎの寝床タイ。
1、が追分道標
2、が西の構口。下の写真のご
  と、両側に石垣があった。
5、が旧高崎家
9、に里程標があって本陣跡。
  ここで道はくの字に曲がって
17、の東構口にいたる。

 お寺やら神社やら、歴史の詰まった見所があるバッテン、それは自分の足で歩いちゃんしゃい。
 街道と直角に両側石垣。その上に白壁の練塀が乗っとったゲナ。

 方角とは関係なしに、江戸の方が上りで東、反対が下りで西。
 東上、西下ていうやろう。

 西構口には
追分道標があって、これには「従是(これより)右赤間道、左飯塚道、元文3年(1738年)」て刻まれとる。

 赤間道とは博多方面に向かう唐津街道、飯塚道が長崎に至る道で、ここ、
遠賀川の渡しが分岐点やった。 
 高崎家は屋号が柏屋。本家の7代目四郎八が分家し創立した家。
 四郎八は文政8年(1835)から町年寄ば務め、翌年には大庄屋にまでなっとんなる。

 嘉永の頃は絞蝋業。明治には醤油醸造業ばしよんなったゲナ。

 放送作家の
伊馬春部は、ここの5代目として生まれ、新宿ムーランルージュの座付き作者となってから人気作家になった。

 ラジオドラマ「向う三軒両隣り」は代表作のひとつやった。
 村庄屋跡
 木屋瀬には、村全体ば統括する村庄屋、旅籠など宿内ば統括する宿庄屋、川船ば管理する船庄屋ていう3つの庄屋があったゲナ。

 松尾家は問屋場の人馬支配役となった後、安政5年(1858)に村庄屋ば勤めなったていう。

 宿場はクサ、東構口から西構口まで約1100mの街道で、裏通りのなか一本道。

 本陣付近で「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建っとったゲナ。

 なしかていうたら、敵が攻めてきた時、そのくぼみに隠れたり、不意ばついて攻撃したりするためやったっちゃ。

 このゲリラ式家並みのことば
「矢止め」ていうたゲナ。

 木屋瀬宿には、オランダ商館員でドイツ人医師のシーボルトやケッペル、測量学者の伊能忠敬だけでのうて、白象が泊まったという記録もあるらしか。

 冷水岳にも、「白象が通った」ていう記録のあるケン、こらあ、ほんなことバイ。

 長崎から、将軍に献上する象がはるばる、冷水峠ば越して来たっちゃねぇ。象も(どうものシャレ)ご苦労さん。
 東構口から見た本陣、御茶屋跡この突き当たりに、いま記念館がある。

 
「みちの郷土史料館」は展示のしかたも工夫してあって、木屋瀬と長崎街道の歴史がよう分かるごとなっとる。

 おまけに、ボランティアの説明員さんがおらつしゃってクサ、親切に解説してくれる。

 北九州市もやるバイ。大福岡もオリンピックやら、夢の久作のごたあこと云わんで、もちぃーったあ文化にも金使うたらどうな。
 東構口にある「江戸あかりの民芸館」

 町全体がむかしの木屋瀬ば残そうとして、統一されとるとがよう分かる。

 この二階の青銅の窓なんか、よう残っとるねえ、て感心するバイ。


 あ、そうそう。長崎におった黒田藩の御用商人で、豪商の
伊藤小左衛門

 ご禁制の密輸(抜け荷)が幕府に見つかって、一族郎党全員が獄門打ち首になったっちゃが、小左衛門が木屋瀬の生まれやったゲナ。

 町ば歩きよったら、伊藤さんていう家のあった。子孫やろか。
 東構口は、黒崎宿方面からの入口で、ここには遠賀川から取り込んだ岡森用水路が通っとる。

 東構口跡の両側に建っとる松本家は、木屋瀬の町家の遺稿として貴重な存在ゲナ。

 かつての構口の石垣に変わって、今では焼瓦塀になっとった。
 福岡からは九州道ば八幡ICまで乗ってもよかバッテン、いまはもう、3号線が流れよるケン、都市高速の香椎出口から真っ直ぐ遠賀川まで走った方が安あがり。

 遠賀川渡って右折。唄の「遠賀土手いきゃあ、雁が鳴くう」じゃあなかけど、右岸ば南下する。

 中間の中間大橋と、遠賀橋ば通過して、新幹線と九州道の下ばくぐれば、すぐ左に
「長崎街道・木屋瀬宿記念館」の駐車場がある。

 すぐ先の中島橋まで行ったら、行き過ぎ。そんときは、左折、左折して旧道ば戻れば、記念館の正面に突き当たる。
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おまけ(木屋瀬に伝わる昔話)

カッパの秘伝薬

むかしむかし、木屋瀬が長崎街道の宿場町として栄えるずうっと前の話タイ。
この辺りの川には、カッパがうんと住んどったゲナ。

しかも、ここのカッパは、いたずら好きで、子カッパ達はクサ
人間の子どもがするごたあ遊びが、特に好いとったらしか。

ある日、わんぱく 子カッパが、釣り糸ば作ろうとしてクサ、
人間の子どもが、馬のしっぽの毛で作りようとば見とったもんやケン、
川原でのんびりと草ば食いよった馬にちかずいて・・・・・・・

尻尾の毛の一番長かとば「えいっ」て力いっぱい引っ張っとうとタイ。
「ひひーん」
びっくりこいたとと、痛かったとで馬は、後ろ足で子カッパを蹴飛ばしたゲナ。

「ボキッ」
子カッパの腕は折れてしもうた。
あんまり痛かもんやケン、子カッパは、わんわんいうて泣き出した。

そこへ、カッパの長老が通りかかったっタイ。

「ほうら見てみろ、いつもわるそうばっかししよるケン、こんな目にあうとタイ」
おごりはしたもんの、可哀想かて思うたっちゃろう、

長老カッパは、なんか紙にスラスラて書いてクサ、
「ほら、これば持って、人間の医者のところへ行ってきない」

木屋瀬には、貧乏やったバッテン、とても親切な年寄りの医者がおって、
子カッパが持ってきた書き付けば見ると、考え込んでしもうた。

書き付けには、カッパらしゅうない達筆で


「カタツムリの殻ば半分、どらネコの髯ば一本、山芋の実ば二つ、帆柱山の杉の実三つばばすりつぶして、折れた骨の上に塗り、大きなキュウリ四本ば頭の上にのせれば治る」て書いちゃった。

「こげな薬は、見たことも、聞いたこともなか」て思うたバッテン、
まあ、ものは試して思うた医者が、書いてある通りい薬ば作ってやったところが、どうじゃろかい、

今まで「いたかぁ、いたかぁ」て泣きよった子カッパが、
急に元気ぃなってクサ、折れとった腕ばグルグル振り回しよるじぁなかね。
折れた骨が元通りいつながっとうとタイ。

心配そうやった仲間のカッパ達も、大喜びタイ。
「ありがとうございました。ところで、この薬の作り方はカッパ一族に代々伝わるもんですバッテン、どうぞ、後々まで伝えてつかあさい」て、お礼いうて帰って行ったゲナ。

その後、このカッパ秘伝の骨継ぎが有名になって
このお医者さんなあクサ、頭にキュウリば載せた人たちで一杯になって、
大繁盛したていう「カッパの秘伝薬」ていう話やった。

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