このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

あじさい寺普光寺
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 場所・大分県豊後大野市朝地町
 山門ばくぐって、境内に入ったら左手の岩壁に不動明王の磨崖仏と石窟が見える。
 この磨崖仏が作られたとは、約700年も前の、鎌倉時代か藤原期やろうていうことやが、誰が彫ったとかは 分かっとらん。
 ちゃーんと両脇には、制多迦(せいたか)童子(高さ5m)と矜褐羅(こんがら)童子(高さ5.4m)ば従えとんなるとバッテン、最近向かって右側の木が茂ってきて矜褐羅童子のほうは見えんごとなってきた。

 このお寺、正式には
「筑紫山普光寺」ていうらしかバッテン、大友時代は「筑紫尾(ちくしお)寺」て呼ばれとったとゲナ。

 江戸時代になって岡藩主の
中川久清が「筑紫尾」は語呂がようなか。畜生に通じるて云いだしなって、尻尾の「尾」ば取って「筑紫山」にしたていう伝えがある。

 くじゅうが好きやった中川の殿さん、なかなかシャレの分かる人やった。

 真ん中の不動明王は高さ11.4m、顔の長さだけでも2.4mもあってクサ、日本最大級の磨崖仏ゲナ。

 不動明王の後ろには、火焔も彫られとって、その赤がいまでもかすかに残っとるていうとが凄か。

 不動明王像の右横に掘られたふたつの岩窟は,金剛界と胎蔵界ば表しとうとゲナ。

  以前はこの岩窟、立ち入り禁止やったバッテン、いまは龕(がん)の
「掛造り」が修理されて、ステージのごとあ立派な展望所になっとった。

 この「掛造り」は、四代藩主中川久恒(ひさつね)が、京都清水寺の掛造り(舞台)ば真似て、お参りのしやすごと造らせたもんていわれとる。

 龕の中は仏像でいっぱいやった。 

 そして、掛造りには、なんとピアノまで置いてある。

 ここで谷越しに演奏したり唄うたりしたら、龕の後ろから音が押し出して、音響効果はバツグンやろう。

 そういえば、この寺
「ピアノ寺」ていう旗がヒラヒラしとって、本堂にも「自由に弾いてください」いうて、ピアノが置いてあった。

 こんど行ってみて分かったっちゃが、右端の岸壁には、多聞天も彫ってあった。

 多聞天いうたら、仏ば守る四天王のひとりで、毘沙門天のこと。仏の北の守りが役目になっとる。

 ここでちょっと普光寺の歴史ば・・

 普光寺は583年、敏達天皇の時代に日羅によって開山されたと伝えられる
真言宗古義派の霊場。

 平安期には荘司・大野氏(大野氏が治めとったケン、合併でも豊後大野市になっとる)によって、また鎌倉期には、岡城に居った地頭・志賀能郷の庇護で発展したとゲナ。

 戦国時代、豊後は大友氏が治め、九州でも有数の勢力やったっちゃが、天正14年(1586)、豊薩の役が起こって、島津軍が豊後ば侵攻してきた。

 若き勇将の志賀親次は、最後まで岡城ば守ったとバッテン、このへんの神社仏閣は島津軍のために打ち壊され、焼かれてしもうた。普光寺もタイ。

 朝鮮出兵で失態のあった大友義統と志賀氏に代わって、文禄3年(1594)、播州(兵庫)から
中川秀成が大野・直入両郡の領主として岡城主となった。

 その後、三代目の
中川久清(ひさきよ・くじゅうの好きな殿さま)は、岡城の鬼門にあたるこの普光寺ば、真言宗の密教寺院として再興したていう訳。

 それから代々中川公の祈祷寺として、大事にされ、お寺には殿さま専用の部屋まであったゲナ。法要・仏事に使いよった
殿さまの井戸水は、いまでもの龕の下にこんこんとわき出しとる。

 昭和57年、地域の人が「磨崖仏護持寺会」ば結成して、境内の掃除やら紫陽花の植栽ばはじめなった。

 それがいまでは、境内いっぱいに、その数3,000株以上。まあだ増やしていく計画ゲナ。

 6月の開花時期にある「あじさい祭り」は「ミスあじさい」の花も咲く、地域あげてのイベントになっとる。

 北滝ロマン街道ていうとは、原白秋の柳川と、廉太郎の竹田ば結んだ道。

 くじゅう方面から入ってくると、雰囲気のよか松並木ば走って、竹田で国道57号線へ左折する。

 大分方向へトンネルをふたあつ抜けて、700mも行くと、右手に案内標識がある。

 右折してしばらくで、また右折し1kmちょいで、左右に大きな駐車場がある。駐車場タダ、拝観料タダ。

 駅長おすすめの条件ば満たしてくれとるとが嬉しかじゃなかね。
 お寺はこうでなからなイカン。

近くには用作公園(ゆうじゃく)もあるバッテン、この時期の用作公園はなあもなか。  取材日 2007.6.23

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