このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

腹切坂
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場所・熊本県・和水町 岩

 腹切坂は、和水(なごみ)町と山鹿市との境に近く、国道443号線から入り込んだ旧街道に、ひっそりとある。

 熊本城内の清爽園(せいそうえん)にある「札の辻」ば基点に、小倉まで続いとった豊前街道の難所で、永ノ原台地から寺本の集落に下る約570mの急坂は、巾員約3〜5mで両側ば杉の木や雑木に覆われ鬱蒼としとる。

 参勤交代で細川の殿様が通んなるときは、地元民がかり出され、竹箒で清掃したて云われとる。

 石畳やったはずバッテン、いまはコンクリの上に苔がいっぱいの陰気くさか道てしか云えん。

 平成17年国の史跡に指定ば受けたとゲナ。

 なんで「腹切坂」かていうことやが、いくつかの当てにならん話が残っとる。

 約800年前、壇ノ浦で負けた平家の落ち武者の一団がこの険しか坂道に差しかかった。
 矢傷ば負うてやっとここまで歩いてきた武将が、坂の途中で一同ば止め、「もうこれにて余が武運は尽きた。これ以上は歩ききらん。皆は達者にて生き延びてくれ」いうて、遥か壇ノ浦の方角ば伏し拝み、西に向かって念仏ば唱え、見事腹ば切って果てたていう。

 そやケン、村人たちはここば「腹切り坂」と呼ぶようになったとゲナ。

 また、昔、飛脚が、その日のうちに熊本の細川家に届けないかん書状ば預かって、江戸から走ってきよった。

 南の関(南関)で喰うた物が悪かったけんか、きりきり痛む腹ば押さえ、足はふらふらで脂汗ば垂らしながら、意識朦朧として坂道に差しかかった。

 這うごとして坂の途中までたどり着いたとバッテン、性も根も尽き果て地面に倒れ込んでしもうた。

 そこへ野良帰りの農夫が通りかかったケン、飛脚は、「ここから頂上まで、あとどのくらいか」て聞いたら、農夫はそこがちょうど坂の真ん中付近やったもんやケン、「貴方がこれまで来た道のりのしこはありまっしょう」て答えた。

 飛脚は江戸から駆けて来た300里の道が、まだ半分かて勘違いしてがっくりこいた。

 そんとき、岩村の光行寺の入り相いの鐘が聞こえてきたもんやケン、もう今日中にこの書状ば熊本まで届けきらんと悟り、農夫から鎌ば借りるやいなや自分の腹ば切って死んだていう。

 また、ひょんなことから人ば殺した西国の武士がクサ、仇と狙う若い武士から逃れようて、諸国ば逃げ回ったとバッテン、ここにいたって所詮逃げられんて悟り、この坂の途中で切腹した。て、いう話もある。

 バッテン、どれもこれも名前さえ分からん。

 「ゲナゲナ話」はウソじゃゲナのたぐいの話ばっかしで当てにはならん。

 ひとつだけハッキリしとるとは、このあたり西南戦争のときの、田原坂に次ぐ激戦地で、官軍の墓所やら、薩軍の包帯所(当時の野戦病院、赤十字の始まりタイ)やら、やたらと遺跡の多か。

 そやけんいうて、さあて1年に何人が訪ねてくるやろうか ?
 よっぽどのヒマ人か、物好きしか寄りつかん。


 苔むして鬱蒼たる腹切坂は、歴史の中にうど暗う眠ったままやつた。
 

 福岡からやったら、九州道ば南関ICで降りて、国道443号線ば山鹿方向へ約10km。

 九州産交バス「肥後岩下」バス停(案内看板がある)から右折する。約500mで左に「歴史の道」の案内板がある。

 左折して狭い道を坂の下の車止めまで入る。

 山鹿からやったら、山鹿市西上町信号ば南関方面へ約1.5kmで鍋田の信号を右折。さらに1.5kmの梅迫バス停から左への急坂を1kmで腹切坂の上部へ出る。

「歴史の道」は狭いけん要注意。駐車場所もなかし離合もでけん。             取材日2009.07.06
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