宝当神社 |
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| 場所・佐賀県唐津市高島
宝当神社のある高島は、唐津城から北へ2キロ。
唐津湾にポッカリ浮かぶ周囲3キロの台形の島。 |
| この人口わずか400人の島に、全国から宝くじファンが大勢押し寄せるごとなった。
神社の名前が「宝当神社」やけんバッテン、この名前ば利用した島民あげての島おこしが、マスコミに乗って、それこそ大当たりタイ。
大臣から表彰状まで貰うとんなるとバイ。
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| 唐津から海上タクシーで行けば10分とかからんで行ける。
タクシーは12艘で運行しょるケン、乗客1人でもあればすぐ出航してくれる。待たんでヨカとがヨカ。
舞鶴橋の下ばこぐって(くぐるの博多弁)、唐津城ば左に、遠く右手に浮岳でも見よれば、もう高島港タイ。 |
| 島の桟橋から、せまか部落の中ば5分も歩けば、宝当神社がある。右から行っても5分。左から行っても5分タイ。
神社の前で村のばぁちゃんが井戸端会議ばしよんなった。
お宮の前やケン、井戸端じゃのうて、宮前会議が正しかろう。 |
| 宝当神社の祭神は、野崎隠岐守綱吉(のざき・おきのかみ・つなよし)
綱吉は、天文23年(1554)、信州諏訪の国の生まれ。
豊後の大友義鎮(後の大友宗麟)につかえた部将やったゲナ。
この綱吉が筑後の草野城に派遣されとったとき、草野城が龍造寺隆信に率いられた5400騎に取り囲まれた。
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| バッテン、綱吉の奮戦で龍造寺は草野ばあきらめ敗走した。
草野城はこれで安堵したとバッテン、草野家の老臣が、綱吉の力ば怖れてクサ、あることないこと綱吉のことば主家の大友にチクッタらしか。
いまでいう派遣イジメに遭うた訳タイ。
綱吉はやむを得ず、家来ば3人だけ連れて逃げだし、小舟ば漕いでこの高島にたどり着いたらしか。
それから綱吉がこの高島に住みついたていう訳。
そやけん、今でも高島はその子孫ばっかしで、みーんな野崎さんタイ。
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| 綱吉が高島に移り住んだ頃、このあたりば火山神九郎ていう海賊が荒らし回っとったらしか。
あるとき、神九郎の手下30人が、高島の人家ば襲うてクサ、穀物やら金ば強奪して、船に積んで逃げろうてしよつた。
これば聞いた綱吉、浜辺に駆けつけて賊船に飛び乗り、帆柱ば引き抜いて振り回したゲナ。
自分も負傷しながら、賊ばやっっけたちゅう訳よ。 このことがあってから、綱吉の強さば知って、二度と海賊が高島ば襲うことはなかったていう。
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| 宝当神社の裏手に、北側が断崖になった170mの山がある。
その麓にあるとが、「塩屋神社」で、綱吉が島民とはかり、天正9年(1581)に氏神として建立していわれとる。 |
| 「塩屋神社(山王宮)」には、
大山祇神(おおやまずみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
それになしか知らんバッテン、
菅原道真の三神が祀ってあった。
高島の産土神として、よう手入れしてあったが、こっちは宝くじとは関係がなかもんやケン、お詣りに来るもんなひとりもおらん。 |
| 天正13年(1586)8月23日。綱吉はにわか病に犯され、再起てけんまま死んでしまいなった。島民は綱吉ば島の大権現として葬り神社ば建てた。
明治34年(1901)、島で製塩業が盛んになり、島が潤うたもんやケン、お礼として綱吉ば祀ったこの神社ば「当島の宝と称える意味で『寳當神社』て名前ばつけ」石造りの鳥居ば奉納したていう。
この頃から宝当神社(ほうとうじんじゃ)ていうごとなっとると。 |
| 平成5年(1993)に、宝当袋ていう縁起物ば、島おこしの一環として始めたところ、関係者の家族に宝くじ当選者が出たもんやケン、宝くじの当たる神社として、全国区で有名になった。
有名になる前の平成2年、島ば訪れた人は年間約6,500人やったとが、平成5年から増え始めて、平成13年にはなんと48,000人にもなった。
平成14年5月にテレビで放送してからは、12日間でなんと、25,000人もの人が押し寄せたゲナ。 |
| JR筑肥線なら、唐津駅下車 歩いて15分の宝当桟橋(唐津市千代田町)から渡船で10分。
福岡から車やったら、都市高速・前原道路・二丈浜玉有料道路で唐津。
ケチるとやったら、浜玉道路は吉井の料金所前で降りて、福吉・虹ノ松原ば抜けて唐津へ。
舞鶴橋ば渡ってすぐ左の、唐津城東口駐車場に入る。ここから海上タクシーが出とるし、渡船場にも近か。
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●渡船料は片道200円。海上タクシーは片道500円。
渡船は時間が決まっとるバッテン、タクシーはいつでも、何人でも0K。 |
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