このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

紫陽花の長垂寺
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場所・福岡市西区今宿青木

 貝原益軒の続筑前風土記に長垂山の記述がある。

 「長垂山(ながたりやま)
 生の松原の西に続きたる山なり。南の方より遠く山続きて、海辺にさし出たれば、長く垂れ下がりたる意にて名付けにしや」

 「ながたれ」じゃのうて「ながたり」いうとこが面白か。 

 さらに、
 「俗説には、清賀、油瓶を打ち割りしに、その油久しく山中に流れただへり。故に長垂山と云いよし語り伝う」

 清賀とは油山で、椿油ば採って糸島の寺に売りよったインド僧・清賀上人のこと。

 ここがその油の配送センターやった。詳しくは「山ものがたり」の油山ば読んじゃんしゃい。

 また、俗にこの山、金銀多し。故に山間より流れ出る水は、薬となるとて、通路の傍に薬水といい、少許なる出水有。

 これが太閤水のことやろう。

 豊臣秀吉が朝鮮出兵のため、肥前の名護屋城に行くく途中、ここのわき水で茶湯を飲んだていわれとると。

 一説には「ああ、喉が渇いた」云うて、秀吉が杖で地面ば突いたらクサ、水の湧きだしたゲナ。
 

 太閤水の横から、長か石段ば上がると突き当たりに「青樹山長垂寺」がある。小さな山寺タイ。

 長垂寺は、江戸時代の前半に、橋本に建立されたとが起源ゲナ。

 紅葉八幡の別院やったっちゃが、西新に移って明治の廃仏毀釈で廃寺となっとったとば、大正15年、県会議員の青木真五郎が、ここに移したていう。

 当時この境内は花見で賑おうとったらしかバイ。

 いまは石段の両脇に、紫陽花がずらーと生えとって、満開の時は紫色の階段になる。

 去年バッサリと剪定したもんやケン、今年までは咲かんやろう。

 戦前、この山には含紅雲母(ペグマタイト)の岩脈があったとバッテン、旧陸軍が採掘してしもうて、いまは「鬼みかげ」て云うきれいな花崗岩ば見ることはでけん。

 長垂寺には舞鶴城の守り神やった毘沙門天が祀ってある。

 毘沙門天いうたらクサ、仏教の四天王のなかの多聞天の事バッテン、いつのころからか武勇の神に変身して独立して祀られるごとなんなったとタイ。

 古うなって、大分痛んだケン、入院しとんなったっちゃが、今はとても美しうなって、帰って来とんなる。

 博多から云えば、明治通りば真っ直ぐ西へ突き抜けて、生の松原の左に和仁会病院があって、その500m先。岬の突端に左へ上った狭くて小さな坂がある。

 上ったらすぐに筑肥線の踏切で側に地蔵堂がある。

 広場の前に私有地て書いてあるバッテン、どんどん入っていく。
 どこにでも車は止められる。勿論タダ。

 2006年6月取材

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