このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
飫肥城趾 | |
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飫肥城趾は、むかしの日向国、現在の宮崎県日南市にある。 | |
文明16年(1484)に日向の北のほう、佐土原あたりば支配しとった伊東祐堯(すけたか)の嫡男で、六代目の伊東祐国(すけくに)いうとがクサ、弟の祐邑とともに飫肥に侵攻してきとるとタイ。 | |
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義祐は子の祐兵(すけたか)に飫肥の地ばやって治めさせたとバッテン、元亀3年(1572)に義祐が木崎原(きざきばる)の戦いで、島津義弘軍に負けたことから、伊東氏が急激に衰えてしもうた。 | |
木崎原の戦いいうとは、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)で、伊東と島津の間でおこなわれた合戦のこと。 | |
伊東氏の没落でクサ、両氏の争いは終わったと思われたとバッテン、飫肥ば失うた伊東祐兵が羽柴秀吉の九州(島津)征伐で、秀吉側について戦功があったもんやケン、秀吉から貰い直して、再び飫肥の地ば治めることになる。 | |
飫肥はあっちい行ったり、こっちい来たりでややこしか話バッテン、祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年まで103年もの間、ふたつの勢力がクサ、一貫してひとつの城ばやったり取ったりした例は、日本の戦史においてまれな例ゲナ。 | |
以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで、飫肥はずーっと(14代280年) 伊東氏が治めとったことになる。 | |
江戸時代、伊東氏が外様大名ていう微妙な立場ながらも、飫肥の地で家名ば全うでけたとは、関ヶ原の合戦でクサ、黒田如水ば通じて家康側に味方した数少なか九州の大名やったけんタイ。 | |
豫章館 明治2年に造られた藩主伊藤家の住まい。広か敷地に主家・御数寄屋・蔵などがある。飫肥城下ではいちばん格式の高っか武家屋敷。南側の庭は庭石やら石灯篭、庭木ば上手に配置した枯山水の庭園になっとる。 | |
その飫肥の町やが、九州の小京都ていわれ、飫肥城ば中心に武家屋敷、石垣、伊東氏庭園などの史跡が当時の面影ば頑固にとどめとる。 | |
九州では長崎の東山手・ 南山手、 有田、 美々津、 知覧、 出水、 八女とともに国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されとって、観光客もひっきりなしに運ばれてきよる。(写真上) | |
日南市からやったら東から飫肥の町に入ってくる。飫肥駅前ば通り越し、稲荷下橋ば渡って飫肥本町信号からふたつ目の角ば曲がり、途中の大手門ていう信号ば直進したら突き当たりタイ。 | |
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