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熊本城 本丸御殿「昭君の間」
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 熊本城は、もともとここにあった中世の千葉城、戦国時代の隈本城ば取り込んで、石垣作りの名人やった加藤清正がいまのような姿に築きあげた。

 日本三名城(熊本と名古屋・大阪または姫路)の一つとして有名で、一大名の城としては「日本一」やろうて云われとる。


左・小天守閣と大天守閣
下・大天守閣から見た西出丸と宇土櫓、金峰山。

 清正が死んだあと、家督は子の忠広が継いだとバッテン、寛永9年(1632)忠広32才の時、急に幕府から改易され、代わって小倉に居った細川忠興の子・3代細川忠利が入城してきた。

 理由はいろいろあるらしかバッテン、加藤家が豊臣恩顧の大名のなかで、最も人気と実力のあったケン徳川がえずがって潰しにかかったて云われとる。

 細川は幕末まで237年、熊本ば治めたとバッテン、清正公(せいしょうこう)さんて親しまれた清正ほどの人気はなかった。

 城は細川の居城となったあともほとんど変わらず、明治初頭までは、大半の建物が残っとったとバッテン、西南戦争とき天守ば含む御殿やら櫓などほとんどば焼失してしもうた。

 ただ清正が築いた石垣だけは、ほぼ始めのままで残り、城跡は特別史跡に指定されとる。

 昭和初期には大天守閣と小天守閣、一部の櫓が復元され、最近では、櫓や御殿などの主要な建物ば木構造で復元する事業が進んどる。

 そのひとつが、平成20年4月20日午後1時から一般公開された本丸御殿で、建築面積が約2,161平方メートル。
 総事業費約54億円かけて復元された。

 往時の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や、台所が備わっとったげなバッテン、今回は大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所(おおおんだいどころだけば復元した。

 金かければなんでもでけんこたあなかろうバッテン、よう当時の図面の残っとったもんて感心する。

 見どころは、障壁画の復元ばした「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」
それに全国的にも珍しか地下通路「闇り通路(くらがりつうろ)」、巨大な小屋組みば見ることのでける「大御台所」などがある。

 公開後いちばん人気のある「昭君之間」は、本丸御殿の最深部にある。

 なんで「昭君之間」か、ていうと、中国の故事に出てくる王昭君(おう しょうくん)が描かれた障壁画がある部屋やけんタイ。

 藩主の居間として使われとったらしかけど、一説によると豊臣家に万一のことがあれば、秀吉の子秀頼ば連れてきて、密かに匿うために造った部屋てもいわれとる。

 なし王昭君の絵ば描いたか ?

「昭君之間(しょうくんのま)」に「将軍(しょうぐん)の間」ば引っかけたとやろうなんて、駅長のダジャレみたいなことば云う学者もおんなる。

 「将軍の間」ばカムフラージするために「昭君之間」なんて、誰が作ったとか知らんバッテン、あんまり上手な話しゃなかバイ。

 でも、表面上は天下人の徳川家康に従いながら、秀吉への恩ば忘れんやった清正の忠義心ば表しとるていうところは分からんでもなか。

 実際、清正ほど秀吉に可愛がられた武将はほかにはおらんやったごたる。

 清正は永禄5年(1562)、尾張国の鍛冶屋・加藤清忠の子として生まれた。
 小さか頃父ば亡くし、母が秀吉の生母やった大政所(おおまんどころ)の従姉妹やったことから、近江長浜城主になったばかりの秀吉に小姓として仕えたていう。

 秀吉にしてみれば、清正は遠か親戚でもあるし将来ば期待して、特に目ば掛けたていう。

 清正もこれに応え、生涯豊臣家に尽くし続けたていう訳タイ。このへんも、肥後もっこすに人気のあった原因やったろう。


 ところで、また王昭君のことやが、王昭君ちゃ誰な ?   ていうと
 王昭君(おう しょうくん)は、紀元前1世紀ごろの人で、匈奴(きょうど)の呼韓邪単于ていう君主の嫁さんやった。
 字(あざな)が昭君。通常、王昭君て呼ばれとったらしか。荊州南郡の出身で楊貴妃・西施(せいし)・貂蝉(ちょうせん)と並ぶ古代中国の四大美人の一人やったゲナ。

 はるかむかしむかしの消えかかったことやケン、誰も知らんとばよかことに、おーまんたくりな話ばすると、
 前漢の
元帝の時代、匈奴(紀元前5世紀ごろから北アジアにおった強大な遊牧民族)の呼韓邪単于(こかんや ぜんう)ていう君主が、漢の女性ば妾にしたかて、元帝におねだりしたところ、美人やった王昭君が選ばれたていう訳タイ。

 一男ば儲けたとバッテン、旦那の呼韓邪単于が死んだもんやケン、遊牧民の習慣に習うて、義理の息子(本妻の子)の嫁さんにされて、さらに二人の子ば産んだていう。

 漢族にしてみれば、ムリに近親相姦ばさせられた訳やケン、王昭君は悲劇のヒロインとしてのちのちまで語り継がれとる、ていう訳タイ。

 しかも、元帝(げんてい)は匈奴へ贈る女性として誰ば選ぶかていうとき、後宮の女の似顔絵帳の中から、一番のブスば選ぶことにしたていうえげつなか話も伝えられとる。
 それによると、王昭君が似顔絵師の毛延寿(もうえんじゅ)に賄賂ば贈らんやったケン、王昭君が一番ブスに描かれてしもうて、結局、匈奴への嫁に選ばれることになったていう。

 元帝に別れば告げるための式で、始めて王昭君ば見た元帝は、その美しかとにたまがって、匈奴にはやりとうのうなったげなバッテン、匈奴との関係が悪化したらいかんもんやケン、「やられん」て撤回することも出来ず渋々送り出した。
 よっぽど残念やったとみえ、その後、不正に気付いて激怒した元帝は、毛延寿の首ば刎ねてしもうたゲナ。

 しかし、これには疑問が多か。匈奴は当時の漢にとって最も重要な外交相手やったケン、その相手に対して敢えて醜い女ば選んで渡すなんていう無礼は考えにっか。中国流「週刊現代バリの作り話」ていうことはみえみえタイ。

 王昭君の墓は、現在の内モンゴル自治区のフフホト市の近くにあったとバッテン、今は無うなってしもうとるゲナ。

 その王昭君がなし、ここに描かれとるとかは、当事者でなからな分からん。また、分からんケンこそロマンやろう。

 福岡から九州道やったら、熊本ICで降りて、熊本北バイパスに入り、約500mの保田窪信号ば右折。水前寺駅前ば過ぎたら300mで水前寺入口信号ばまた右折。

 電車道ば豊肥線の陸橋こぐって、1.5kmで水道町信号直進。500mで電車といっしょに左カーブして、400mの案内板で右折すれば城内に入る。

 左の地図は国道3号線ば北から下ってきて、水道町で右折しとる。

 
本丸御殿オープンの時は、撮影禁止やったとが解除されて、フラッシュなしなら撮せるゴトなつた。
              取材日2009.7.6 

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