高瀬裏川 |
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| 場所・熊本県・玉名市
菊池川に架かる高瀬大橋の西側に高瀬裏川がある。
江戸時代、この高瀬町一帯は、米ばはじめとする農産物の集積地で繁盛しとった場所ゲナ。
高瀬裏川はクサ、上町から下町にいたる本通り筋の商家の裏から直接、荷物の揚げ降ろしができるごと作られた人工の運河タイ。
そやケン、裏川ていうと。 |
| 北の端には、むかしの船着き場にあたる高瀬眼鏡橋が、高瀬のシンボル的な役目ばしとる。県指定の重要文化財にもなっとると。
2連の石造アーチ橋。アーチのスパンが6.7mもある二重橋で、全長は19m。巾4.1m。基礎からアーチ頂上までの高さは3.3mもある。
江戸時代末期の嘉永元年(1848)に、高瀬町奉行高瀬寿平らによって造られ、種山村の石工橋本勘五郎(嘉八の三男)が架けたていう。
脚柱の長さが中央部と端で違うとが特徴で、上流側には、ちゃんと「水切り」もつけてあった。 |
| 高瀬眼鏡橋の約100m下流にはクサ、秋丸眼鏡橋ていうともあって、これはアーチがひとつの片目橋タイ。
架けられたとは天保3年(1832)で、架けたとは惣庄屋斉藤形右衛門。
石工は種山の嘉八(勘五郎の父)
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| むかしは、菊池川に流れ込む裏川の秋丸地区(高瀬眼鏡橋の上流)に架かっとったとバッテン、河川改修事業で撤去され、平成9年に今の場所へ移築復元されたとゲナ。
そやけん、菊池川からの逆流や潮水の遡上(そじょう)ば防ぐ樋門(ひもん)がついとるっタイ。
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| この一帯、高瀬裏川水際緑地公園になっとって、数百メートルにわたって藤棚やら肥後菖蒲(しょうぶ)が植えてある。
しかも、ちゃんと川辺が散策できるごと木道まである。
昭和55年に、全国で初めて国土庁が行った水際緑化モデル地区としての指定ば受けて整備されたとゲナ。
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| 約13000株の花菖蒲は、例年6月の初旬に紫や白の花を咲かせるケン、毎年6月の第一土曜日からは「花しょうぶまつり」が開かれ、 ライトアップもされる。
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| 川沿いの道には100本の矢旗が掲げられ、風にはためいてなんとも云えん風情がある。
よう整備された園内は、ごみ一つ落ちとらん。咲き終わった花がらば、丁寧に取っとるおじさんがいて。
こげな人たちの努力によって、この景観はしっかり守られとるていうとがよう分かる。
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| 公園には全部で六本の橋があって、どれもが個性的で面白か。
小崎橋には片方だけに溝の彫り込みがあって、荷車やリヤカーは片方の輪ばその溝に入れるごと、川に落ちん工夫がされとった。
片っぽだけ溝ば彫ることで、幅の広か車にも、狭か車にも対応でけたとやろう。
J R がいま研究中のフリーゲージがここにはすでにあった。。 |
| 塩酢屋橋いうとは、中央が低うけづってあってクサ、重か荷物ば抱えたり、天びん棒担いで荷物ば運ぶ時、両足ば踏ん張られるごと工夫してあった。
これなら河に落ちるモンもおらんやったろう。 |
| 明治10年2月25日から27日にかけての高瀬争奪戦は、西南戦争の関ヶ原ていわれるくらいの激戦やったゲナ。
なんせここは、モノが集まっとる経済活動の拠点やったけんね。
熊本城ばめざし南下する官軍と「政府に尋問の筋あり」て北上する薩軍の主力がここで激しうぶっつかった。
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| 両軍の激戦は稲荷山ば中心として繰り返され、官軍の乃木希典少佐は負傷。
西郷隆盛の末弟・西郷小兵衛は繁根木川の河口で戦死するなど、双方に大勢の死者が出た。
この戦で、御米蔵にあった25万俵の米も、高瀬の町並みも大半が焼けてしもうたていう。
結局、兵力・軍備の補給が続かんで負けた薩軍は、田原坂まで退却して、有名な「雨は降る降る人馬はくもる、越すに越されぬ田原坂」になるっタイ。
以後、薩軍は追われ追われて鹿児島まで、苦難の逃避行ば強いられる。
そやケン、薩軍がもっとも攻め上がったとは高瀬までやった。
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| 福岡からやったら、九州道ば菊水ICで降りて、県道16号線ば菊池川に沿って南下する。
玉名橋ば右折して渡ってもよかバッテン、そのまま左岸ば直進して、高瀬大橋で右折する。
橋ば渡れば、両側の河川敷に広か駐車場がある。
駐車場から土手ば上がれば、菊池川に沿うごとして、すぐ高瀬裏川が流れとる。
大牟田・荒尾からやったら、国道208号線ば、どんどん南下してくれば玉名市内ば抜けて高瀬大橋に着く。
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駐車場も公園も勿論、駅長の大好きなタダ。取材日2007.6.4 |
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