田主丸の河童 |
目次へ
|
観光案内所へ
|
| 場所・福岡県田主丸町
河童の里、田主丸町は久大線の駅までカッバ。ふるさと創生資金で作ったとゲナ。
慶長19年(1614)、菊池丹後入道が吉瀬治部のヤブば開墾して、長さ125間の町筋ば作ったことに始まる。
地名のおこりは、その丹後入道の人生訓「楽しく生まる」から「たぬしまる」の名が生まれたて伝えられとるけど、駅長のダジャレと五十歩百歩でかなり苦しか。
|
| 明治22年に田主丸村、豊城村の合併で町制ば施行。その後昭和29年に田主丸町、船越村、水分村、水縄村、筑陽村、竹野村が合併した。そして、2005年2月には久留米市と合併してしもうた。
ところで、河童の由来には二つの説がある。
ひとつは、中国大陸出身の「九千坊という河童」が999匹の家来ば率いて熊本の球磨川に移り住んだとバッテン、加藤清正の怒りば買い、筑後川に逃げ込んだとする説。 |
| もうひとつは、壇ノ浦の合戦に敗れた平家一族が筑後川流域に逃れてきたとバッテン、清盛の孫の知盛が草野一族に討ち取られてしもうた。後にその怨念が化けたとする説。
たたりば怖れた村人は、神社に河童の石像や木像ば納めあがめたていう。特に清盛の化身は「巨瀬入道(こせにゅうどう)」として大切に祀られとる。
町内のあちこちには河童の像があって、町が作った「河童めぐりマップ」ば片手に訪ね歩けば、のんびりした気分になる。
写真・上は「宇宙河童」
左は「屁こき河童」 嫌なことは「屁でもくらえ」てふっとばす。
どんなに苦しうても「屁の河童」 |
| 伝説の河童がある。
その主人公ば怠け者の弥五郎ていう。
巨瀬川筋の水車小屋の樋(とい)の上でいつも昼寝ばしとったケン、みんなから「樋の上の弥五郎」て呼ばれとった。
昼寝ばしとるところい近づいた人は、弥五郎の神通力で、頭痛がしたり高熱が出たりするていうもんやケン、弥五郎のおる樋には誰も近づこうとはせんやったゲナ。 |
| 弥五郎は大変な色好みの河童で、樋の上で昼寝ばして過ごすとも毎晩の夜遊びで疲れとったけんげなタイ。
ところが、ある真夏の暑い日、子どもたちが川下で遊んどったら、なんとなんと、その弥五郎河童が流されてきた。
夜遊びで疲れ、我ば忘れて熟睡しとる間に頭の皿の水が乾いてしまい、神通力ばなくして流されたていうワケやった。
「河童の川流れ」ていうことわざはここからきたていわれとる。 |
| 河童は相撲が大好きていうことになっとる。
村に出てきては誰彼と無く「相撲ばとろう,相撲ばとろう」ていうとたゲナ。
好きなだけあって、無茶苦茶強かったらしか。
河童から相撲に負けたら川に引っぱり込まれて、浮いてはこんて云われてきとる。
写真は上から、祈り河童。28水河童(昭和28年の大水害の後できた)
相撲河童 |
| 九州自動車道久留米ICから、日田へ向かう国道210号線ば久大線に沿って約20km。
大分自動車道からは、甘木ICで降りて1km東へ、一ッ木の信号ば右折「甘木田主丸線(33号線)」ば8km南下すれば田主丸町に突き当たる。
まず河童の田主丸駅に行って「河童めぐり」の観光マップば手に入れまっしょう。 |
上村うなぎ 田主丸には有名な「鯉とりまーしゃん」の孫が経営する上村うなぎ本店と支店
「鯉の巣」がある。国道ば挟み向かい同士で川魚料理店ば営業しとる。味も値段も
似とるけど、支店の主人は駅長の元部下やったケン、心情的にはこっちが旨か。 |
目次へ
|
観光案内所へ
|