佐賀城本丸跡 |
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| 場所・佐賀市城内
天正12年(1584)に島原で龍造寺隆信が討ち死にして、佐賀藩の実権は鍋島直茂(なおしげ)に移った。 直茂は、慶長7年(1596)から築城ば始め、慶長16年(1611)に佐賀城ば完成させた。
バッテン、享保11年(1726)の大火でぜーんぶ燃やしてしもうた。。 |
| その後、銭(博多弁でいうとゼン)のなかったケン、110年間は再建できず、二の丸で藩政ば仕切っとったげなが、その二の丸もクサ、天保6年(1835)に火災にみまわれとるっタイ。
10代藩主直正(なおまさ)が、やっと本丸の再建に着手しなって、そん時、本丸の正門として建てられたとが、いま佐賀城の象徴ともいわれとる「鯱の門」タイ。
天保9年(1838)に完成しとる。 |
| 明治7年の佐賀の乱では、ここが激しか攻防の場所になって、門の扉には、生々しか弾痕がいまでも残っとる。
佐賀の乱ていうとは、明治7年1874年におこった士族たちのクーデターやった。
封建復帰ば願う旧氏族たちが、反乱の準備ばしよるちゅうことば知って、鎮めようてした島義勇(憂国党)と江藤新平(征韓党)は、逆に「首領になってつかあさい」ちゅうてクサ、担がれてしまうた。 |
| 政府は大久保利通が直接指揮ば取って、岩村高俊・佐賀県権令に軍隊ばつけて鎮撫にあたらせケン、士族たちは反政府軍と政府軍の両方に分かれて、佐賀んもん同士で激戦となった訳。
結局政府軍が勝って、江藤・島は脱走したバッテン、捕えられて処刑された。
柱にあいた弾痕の奥には、弾の鉛が塊となって食い込んどる。 |
| 佐賀鍋島氏は、初代藩主・勝茂から、11代続いて明治維新に至っとると。
歴代の藩主の中ではクサ、、幕末の動乱期に富国強兵政策ば採って、佐賀藩ば最強軍団て云われるまでに仕上げた10代直正(閑叟・かんそう)が、なんちゅうても有名タイ。
2004年8月には、佐賀城本丸歴史館がオープンしとる。 |
| 鯱の門ていうとは、二重二階の楼門の南北に佐賀藩の御用鋳物師・谷口清左衛門がこさえた鯱があがっとるけんタイ。
こらあ立派なもんやケンしゃっちが見に行かないかんバイ。
門の内側には、閑叟が輸入品ばコピーして、佐賀藩で作ったアームストロング砲のレプリカが飾っちゃあ。
この砲については、司馬遼太郎の小説「アームストロング砲」ば読んじゃんしゃい。詳しかケン。 |
| 以前市の中心部ば走っとった34号線。いまは国道264号線になっとる。
福岡から市内に入り、佐嘉神社がある「水ケ江」交差点の次ば左折する。
佐賀城公園の壕ば渡って、直進しサガテレビの角ばまた左折すれば、本丸跡の駐車場に入っていける。
駐車と鯱の門とか天守閣跡の観覧はタダバッテン、佐賀城本丸歴史館はゼンがいる。
(2006年5月現在) |
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