このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
南北朝哀話が残る姫御前岳 黒木町と熊本県の県境に、おんなじような背丈のやまがみっつ並んである。北から雌岳(562m)・姫御前岳(596m)・雄岳(532m)て云う。 無名山ば有名山にする「やぶこぎ探検隊」の呼びかけに応じた黒木町が、整備して登れる山にした。 登山口はグリーンピア八女やケン、下りてくれば風呂もある。 姫御前岳て云われとるとは、南北朝の時代に、南朝の西征大将軍やった良成(よしなり)親王が、北朝の軍勢に追われて矢部にまで逃げ込んだとき、身重の后「姫御前」が、ここで追っ手に捉えられ、おなかの子もいっしょに焼き殺されてしもうた、ちゅう話があるけんタイ。 姫御前は殺されるときに「わたしはここで殺されるが、これからは身ごもった女の人を守ってあげましょう」て云わっしゃったゲナ。 それから安産の守護神として、地元で大事にお祀りしよんなる、ていう話。 姫御前岳の山頂は展望なし。山頂標識だけ。 雌岳から姫御前岳に向かう山道ば、左へ40mばかり下った所いクサ、確かにそれらしき石の祠があったけど、大事に祀っちゃあていう感じじゃなかった。ま、云うたらいかんバッテン、ほったらかしちゃった、ていうたほうがよかろう。 黒木の町史によると、追っ手に捕まったじゃのうて、この峠で急に産気づいた姫御前岳が、難産のために死んだということになっとって、ここんとこが一寸ちがう。 死ぬ間際に「我死なば、難産の女を救い、安産を得るよう守るであろう」て云うたところはいっしょ。 いずれにせよ、黒木に伝わる南北朝哀話が、この山の名になっとうとタイ。 八女のこんへん一帯はクサ、1335年から始まった南北朝抗争の影響ばしっかり受けとうとバイ。 南北朝の対立云うたらクサ、日本の歴史の中でも、一番ヒッチャンガッチャンの時代でクサ、整理しても訳しゃ分からん頃タイ。 地元で「姫御所さん」ていわれて祀られとる。 もともと、足利尊氏(たかうじ)ちゅうヤツはろくなやつじゃあなうてねえ。もともと北条の側でありながらバイ、後醍醐天皇側に寝返って、いったん北条の鎌倉幕府ば倒す。 後醍醐天皇からほめられてクサ、足利高氏やったとい、天皇の実名(尊治)の一字ばもろうて、尊氏ば名乗ったくらい大事にされとったとい、征夷大将軍の名前ばくれんやったケン云うて、今度は後醍醐に反旗ば翻した。 後醍醐に負けた尊氏は、いったん九州へ逃げて体勢ば立て直し、光厳上皇の弟・光明天皇ば立てて、こっちが本家ていいだした。これが北朝。後醍醐から京都ば取り返した。 後醍醐のほうは吉野へ逃げて「こっちが元祖で本もんタイ。京都はにせもんバイ」て云うた。これが南朝。 このころは、天皇も大覚寺統と持明院統から、かったりごし(博多弁・かわりばんこ)に出したり、年号も北朝用と南朝用のふたとおりあっりして、勝手なもんタイ。天皇家の血筋も遡れば、どこの馬の骨か分からんと。 尊氏が信用しとった高師直(こうのもろなお)と直義が抗争したりして、北朝が混乱したとばチャンスとばかり、こんどは後醍醐が京都ばまた取り返す。そして九州へは懐良親王ば派遣して、熊本の菊池とともに太宰府ば支配する。 懐良親王ていえば、後醍醐天皇の第11皇子で、名前の読みが二通りあってクサ「かねながしんのう」と「かねよししんのう」てややこしか。原因はNHKの大河ドラマで、後村上天皇の第七皇子の「良成親王」がよしなりやケン、「懐良親王」のほうも「良」ば「よし」て読んで「かねよし」て云うたとが定着してしもうた。 建武3年(1336年)に8才で後醍醐天皇から、征西大将軍に任命されたバッテン、そげな子供に何が出来るな。五条頼元に補佐されてクサ、吉野ば出発し、瀬戸内海の海賊・熊野水軍の援助もあってクサ、1342年に九州の鹿児島にやっと上陸。 九州には尊氏が鎮西総大将として博多に残した一色範氏・仁木義長らの足利勢力がおってクサ、九州は幕府、南朝勢力の対立状態となっていったちゅう訳。 九州に勢力ば築いとった南朝側も。その後、幕府が九州探題として派遣してきた切り札の今川了俊に、大宰府・博多ば追われるはめになる。懐良親王は星野まで逃げ込んだがここで病死。55才やった。 |
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