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南北朝哀話が残る姫御前岳

 黒木町と熊本県の県境に、おんなじような背丈のやまがみっつ並んである。北から雌岳(562m)・姫御前岳(596m)・雄岳(532m)て云う。

 無名山ば有名山にする「やぶこぎ探検隊」の呼びかけに応じた黒木町が、整備して登れる山にした。
 登山口はグリーンピア八女やケン、下りてくれば風呂もある。

 姫御前岳て云われとるとは、南北朝の時代に、南朝の西征大将軍やった良成(よしなり)親王が、北朝の軍勢に追われて矢部にまで逃げ込んだとき、身重の后「姫御前」が、ここで追っ手に捉えられ、おなかの子もいっしょに焼き殺されてしもうた、ちゅう話があるけんタイ。

 姫御前は殺されるときに「わたしはここで殺されるが、これからは身ごもった女の人を守ってあげましょう」て云わっしゃったゲナ。

 それから安産の守護神として、地元で大事にお祀りしよんなる、ていう話。




                              
姫御前岳の山頂は展望なし。山頂標識だけ。

 雌岳から姫御前岳に向かう山道ば、左へ40mばかり下った所いクサ、確かにそれらしき石の祠があったけど、大事に祀っちゃあていう感じじゃなかった。ま、云うたらいかんバッテン、ほったらかしちゃった、ていうたほうがよかろう。

                            
 黒木の町史によると、追っ手に捕まったじゃのうて、この峠で急に産気づいた姫御前岳が、難産のために死んだということになっとって、ここんとこが一寸ちがう。

 死ぬ間際に「我死なば、難産の女を救い、安産を得るよう守るであろう」て云うたところはいっしょ。

 いずれにせよ、黒木に伝わる南北朝哀話が、この山の名になっとうとタイ。

 八女のこんへん一帯はクサ、1335年から始まった南北朝抗争の影響ばしっかり受けとうとバイ。

 南北朝の対立云うたらクサ、日本の歴史の中でも、一番ヒッチャンガッチャンの時代でクサ、整理しても訳しゃ分からん頃タイ。




                             
地元で「姫御所さん」ていわれて祀られとる。

 もともと、足利尊氏(たかうじ)ちゅうヤツはろくなやつじゃあなうてねえ。もともと北条の側でありながらバイ、後醍醐天皇側に寝返って、いったん北条の鎌倉幕府ば倒す。

 後醍醐天皇からほめられてクサ、足利高氏やったとい、天皇の実名(尊治)の一字ばもろうて、尊氏ば名乗ったくらい大事にされとったとい、征夷大将軍の名前ばくれんやったケン云うて、今度は後醍醐に反旗ば翻した。

 後醍醐に負けた尊氏は、いったん九州へ逃げて体勢ば立て直し、光厳上皇の弟・光明天皇ば立てて、こっちが本家ていいだした。これが北朝。後醍醐から京都ば取り返した。

 後醍醐のほうは吉野へ逃げて「こっちが元祖で本もんタイ。京都はにせもんバイ」て云うた。これが南朝。

 このころは、天皇も大覚寺統と持明院統から、かったりごし(博多弁・かわりばんこ)に出したり、年号も北朝用と南朝用のふたとおりあっりして、勝手なもんタイ。天皇家の血筋も遡れば、どこの馬の骨か分からんと。

 尊氏が信用しとった高師直(こうのもろなお)と直義が抗争したりして、北朝が混乱したとばチャンスとばかり、こんどは後醍醐が京都ばまた取り返す。そして九州へは懐良親王
ば派遣して、熊本の菊池とともに太宰府ば支配する。

 懐良親王ていえば、後醍醐天皇の第11皇子で、名前の読みが二通りあってクサ「かねながしんのう」と「かねよししんのう」てややこしか。原因はNHKの大河ドラマで、後村上天皇の第七皇子の「良成親王」がよしなりやケン、「懐良親王」のほうも「良」ば「よし」て読んで「かねよし」て云うたとが定着してしもうた。

 建武3年(1336年)に8才で後醍醐天皇から、征西大将軍に任命されたバッテン、そげな子供に何が出来るな。五条頼元に補佐されてクサ、吉野ば出発し、瀬戸内海の海賊・熊野水軍の援助もあってクサ、1342年に九州の鹿児島にやっと上陸。

 薩摩の谷山から肥後の隈府城(菊池市)に入り、ここに征西府ば開いて九州戦略ば開始することになるとやが、南朝の頼りは、菊池武光やら阿蘇大宮司の阿蘇惟直たちやった。

 菊池氏や阿蘇氏は、その前に尊氏が九州に来たとき、多々良浜の戦いで敗れて尊氏に恨みのあるもんやケン、九州の南朝勢力の中心やった。

 九州には尊氏が鎮西総大将として博多に残した一色範氏・仁木義長らの足利勢力がおってクサ、九州は幕府、南朝勢力の対立状態となっていったちゅう訳。

 懐良親王ば擁立した菊池氏は、正平7年(1352年)の針摺原の戦い(太宰府市)で、さらに正平14年(1359年)の筑後川の戦い(大保原の戦い、福岡県小郡市)で、少弐頼尚(なおひさ)傘下の北朝方ば破り、九州の拠点やった大宰府ば制圧する。

 九州に勢力ば築いとった南朝側も。その後、幕府が九州探題として派遣してきた切り札の今川了俊に、大宰府・博多ば追われるはめになる。懐良親王は星野まで逃げ込んだがここで病死。55才やった。

 二代目西征大将軍の良成親王も矢部に逃げて、南朝の再興ば画策したバッテン、もう南朝側に力はのうて、悲しみのうちに35才の若さで病死。

 かき回されてしもうた九州北部こそ、よか迷惑やったタイ。

 これで、なし良成親王やら姫御前が黒木の山ん中ば通りよったとか、関連が分かったろうか。

 懐良親王の墓は星野村の大円寺と、久留米市草野の千光寺に、親王が40年住んだ八代には、八代宮があって懐良親王と甥の良成親王が祀られとる。良成親王の墓所は矢部村の大杣公園にある。

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