御所ケ岳の御所は景行天皇のこと ?
山城はあとから天智天皇が作らせたとやろう
御所ヶ岳(247m)は、低っか山バッテン、歴史は古か。 いまからいうたら、2000年も前、大和朝廷がまぁだ固まらんやった頃、九州にも東北にも抵抗勢力がいっぱいおって、12代目の景行天皇と、その息子の日本武尊(やまとたける)は、熊襲征伐、蝦夷征伐て、南に北に大忙しやった。
82年には熊襲が背いたケン、8月に天皇自ら九州に入んなって、豊後の碩田(おおきた・大分か)で土蜘蛛ばやっつけ、11月には日向国に行って、熊襲梟帥(くまそたける)ばその娘に殺させて平定しとんなる。
土蜘蛛ゆうたっちゃ、蜘蛛じゃなかと。分かっとろうバッテン、大和朝廷がでける前から、その土地ば支配しとった豪族のこと。侵略者からすれば、蜘蛛のごと、せからしかったとやろう。
日向高屋宮(宮崎県西都市)に6年おって、球磨郡やら葦北ば平らげ、高来県(長崎県諫早市)、阿蘇国(熊本県阿蘇郡)、的邑(いくはのむら・福岡県浮羽郡)ばまわって帰っとんなると。
このとき、この山に長狭行宮が置かれ、しばらく天皇がおんなったケン、御所ケ岳て言い伝えとるとやろう。別名ホトギ山ともいう。
津江の御前岳も、このとき、登っとんなるとみえて、山頂に行幸碑のあると。それで御前岳タイ。
飛行機も車もなか時代に、こげん、あっちゃこっちゃ、飛び回ろうちゃあ、大変やったろう。
このことは、古事記には一切書かれとらんミステリー。
駐車場には、御所ヶ谷神籠石(こうごいし・国史跡)の立派な解説板が立っとる。
神籠石いうたらクサ、、もともとは神が天から降りてこらっしゃる磐座(いわくら)のことバッテン、久留米高良山の列石ば、昔から神籠石いうて呼びよったケン、どこんとも石積の遺跡であれば、ぜーんぶ神籠石ていうごとなってしもうとると。
「神籠石ちゃあ、ほんなこたあ、なんな」いうて論争が続いたとバッテン、1960年代から始まった各地の神籠石の発掘調査で「列石は土の城壁(土塁)の基礎」ていうとが確認され、古代の山城の跡やろう、て、やっとカタがついたとゲナ。
本来の意味とは違うて呼びよったことがわかったバッテン、もうすでに遺跡名として定着しとったもんやケン、磐座であろうが、山城の跡であろうが神籠石てごっちゃにしたままタイ。
考古学なんて、こげなふうでクサ、ハッキリせんことばよかこといして、オーマンかとよ。近年では「神籠石式山城」とか、訳の分からん言い方ばしよるっタイ。
公園化された住吉池の登山口から、しばらく沢沿いに登れば、両側に石積みのある中門に来る。
切石(横1m、縦60cmほど)が高いところでは10段以上も積み上げらとる。しかも、これだけ正確に石ば切るためには、鉄器が必要やった筈。また積み上げるには、クレーンもなかとい、どうしたっちゃろうか。
景行神社ていうとがあって、尾根道となり、ここらにも所々に石で保護された城壁と思われる土塁が残っとる。この土塁は山腹に 3kmにわたって築かれとるらしか。
この山の城壁や石畳は、景行天皇の行宮やったケン、作られたっちゃろうて云われとったけど、それは間違いで、山城が築かれたとは、景行天皇から500年も後の、6世紀、天智天皇の頃でなからないかん。
それはなんでかていうと、663年,日本は、百済ば救援するため,3万2000人もの兵ば送ったとバッテン、唐・新羅連合軍に白村江(はくすきのえ)の河口で行われた海戦で大敗。くだらん(百済)ことばしたもんタイ。
そのため、天智天皇は逆に、唐・新羅が攻めてくるっちゃなかろうかて、怯えてクサ、北九州に防人ば置くやら、水城ば築くやら、防備に一生懸命やったとタイ。
その時に作ったとが、朝鮮式山城いうて、九州には8ヶ所以上もある。御所ケ岳の山城もその一つやろうて考えられる。いうなら、鞠智城(菊池)、基肆城(基山)、大野城あたりの山城と目的も作りもいっしょていう訳。 しかし「天智紀」ていう記録に、御所ケ谷城の築城の記事はなかし、西から攻めてくるとい、この地に城ば築くとは考えられん。
逆に御所ケ谷の城は、大和朝廷に刃向かう九州王朝の逃げ城やったとかも知れん。
逃げ城いうたら、戦になったとき、兵も集落民も避難する場所のこっタイ。高松の屋島もそうやった。
「ああ、分からんケン、ロマンですなあ、考古学は」ていうこと。
山頂は狭かバッテン、南に展望がある。東には馬ヶ岳が見えとる。
馬ヶ岳の山頂にも城跡があって、南北朝時代に新田義基が本拠としとったらしか。
養子の宗景に、貫山の城ば守らせとったていうことは、貫山の項で書いた。
山頂から馬ケ岳。遠くには周防灘が見える。 |