戦争に勝ったつもりで「勝田線」
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勝田線(かつたせん)ていうとは、吉塚駅と宇美町の筑前勝田駅とば結んどった国鉄の地方路線
でけたとは、大正7年(1918) ところが、昭和55年(1980)の国鉄再建法で第1次特定地方交通線に指定され
昭和60年(1985)に全線があっけなく廃止されてしもうた。62年間の命やった |
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 | 人間なぁどうかていえば、福岡市のベッドタウンいうことで、人口は増えたバッテン、西鉄バスが鉄道路線に沿うて博多駅・天神に走るもんやケン、乗客は便利なバスにみーんな行ってしもうとった。
勝田線なぁたまるもんかい。経費節減のため減便して1日6往復にしたバッテン、かえって不便になって、そっぽむかれてしもうた。
駅はいちばん多かった時で10駅(吉塚ー御手洗ー上亀山ー南里ー志免ー田富ー下宇美ー宇美ー大谷ー筑前勝田)やった。 |
 | 吉塚駅
これはいまの吉塚駅構内。ここで鹿児島本線から篠栗線(いまは福北ゆたか線)が別れていく。
いまは高架駅になったケン、よかバッテン、むかしの吉塚は妙見の踏切がクサ「開かずの踏切」で、車がいつも大渋滞やった。
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 | 郷口川の鉄橋
むかしの吉塚村も。いまではけっこうな市街地になったもんやケン篠栗線はここまで高架になつた。
むかしは篠栗線も勝田線も、堤防ば上がるとに苦労しながら、ここば鉄橋で越えて行きよった。
駅長が子供の頃は、この川で鮒やらハゼが釣れよったとい、いまは生活用水が流れ込み濁っとる。
名前も郷口(ごうぐち)川から宇美川に変わった。
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 | 勝田線の路盤
篠栗線の横に、むかし並んで走りよった勝田線の築堤(草ぼうぼうのところ)が残っとった。
むかしはこの堤防で、蒸気機関車がヒイコラヒイコラいいよった。
いまは高架になって電化された篠栗線が、音も立てずに、スイスイと駆け抜けていく。
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 | 新幹線ばくぐって、社領2丁目の北公園あたり、かって勝田線が走りよった路盤に、篠栗線の引き込み線があって、保線用社領が留置してあった。
このあたり一帯なし社領ていうとかていえば、箱崎宮の領地やったけんタイ。
昔の大きなお宮は、藩主から貰うた土地のアガリで食いよんなったとやろう。
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 | 篠栗線と併走
篠栗線と勝田線が並んで走っとったとがよう分かる路線跡が、20年経ってもそのまま残っとる。
行く手に見えとるとは、3号線の立体交差。右に行けば二又瀬。これば百年橋通りても云うし、博多バイパスてもいう。
500m先には昭和63年(1988)にでけた篠栗線の柚須駅が見えとる。ここで勝田線は右折した。
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 | 柚須駅
柚須の駅は箱崎と篠栗街道の釜屋ば結ぶ県道21号にある。駅の100mばっかり吉塚寄りから、ここはもう粕屋町。
むかしは田圃ばっかりやったとバッテン、家が立ち込んだもんやケン、あとから駅がでけた。
写真の右が踏切で、吉塚からの列車は左から来る。駅の駐輪場が斜めに建っとるとは、ここで分岐した勝田線の廃線跡ば利用して作ったけんタイ。
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 | 釜屋の信号から少うし行くと、この辺りば御手洗て書いて「みたらい」ていう。
よそから来たおっちょこちょいが、道ば尋ねるとい「おてあらい」はどこですかて聞いたもんやケン、これまた博多のおっちょこちょいが公衆便所ば教えたゲナ。
なし御手洗か。
誰かがここで手ば洗いなつたとやろう。多分、可能性の高っかとは、神功皇后あたりか。
すぐそばば流れる宇美川の岸に、御手洗八幡宮いう捨てられたごたあお宮さんがあるバッテン、誰ば祀ってあるか分からん。
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 | 御手洗駅跡
廃線跡の道の左手に、キチンと整備された広場がある。ベンチがあって「志免鉄道記念緑道」の案内看板がある。
多分ここやろう。すぐそばの会社から煙草喫いに人が出てきなったケン、聞いたバッテン「知りまっせん」やった。
それにしても、会社でも煙草が喫われん近頃の煙草のみさんは大変ねぇ。 |
 | 志免緑道
志免町に入ると廃線跡は、整備された遊歩道兼サイクリングロードになる。
このあたり両側には、中小企業の工場が並んどって、機械の音やら「おらび声」の聞こえてきて、なかなか活気がある。
「おらび声」いうたら共通語では「叫び声」かな。 |
 | 五斗蔵交差点
福岡空港の東、五斗蔵(ごとぞう)交差点と100mしか離れんで廃線跡の緑道は、洒落たデザインば見せながら続く。 |
 | 上亀山駅跡
だだっ広か公園になってしもうとるバッテン、かって亀山炭鉱からの石炭ば積み出しよったヤードの面影は、なんとなく想像でける。
亀山炭鉱は、明治29年から始まっとる古か炭鉱で、福岡市内からボタ山ば眺めて、あれが亀山炭鉱のボタ山タイ。て聞かされよった。
当時おもだった粕屋地方の炭鉱いうたら、海軍炭鉱(志免)、高田炭鉱、粕屋炭鉱、 久原炭鉱、亀山炭鉱、勝田炭鉱、大谷炭鉱、篠栗炭鉱、宇美炭鉱があった。 |
 | 亀山八幡宮と亀山古墳
この近くには亀山八幡宮いうとがあって、誰ば祀ってあるかていえば、箱崎八幡宮といっしょで、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇タイ。
神社の境内には、おおむかしこの粕屋でいちばんやつた王が葬られとる古墳がある。
1700年も前は、この辺りはまぁーた海でクサ、竪穴住居に住んで、貝やら魚ば捕って食いよったとやろう。稲も作りよったかも知れん。 |
 | 亀山から勝田線は東へ走って、香椎線にひっついていく。
香椎線いうとは明治37年(1904)に、博多湾鉄道(略して湾鉄)いうとが、石炭ば積み出すために、宇美〜西戸崎間に作った路線タイ。
この会社は昭和19年(1944)に、西鉄と合併して西鉄糟屋線てなっとったとやが、昭和19年(1944)国に買収されて、国鉄香椎線になったと。
J R になってもそのまま続いとる。篠栗線とは長者原で立体交差する。 |
 | 南里駅跡(みなみざと)
仲原の扇橋から、空港の東ばぐるーっと回って3号線福岡南バイパスの立花寺北に繋がる県道24号線。
この道が志免ば突き抜けとっちゃが、志免のちょっと北に「南里駅前」ていう信号がある。
南里駅はとっくの昔に無うなっとるとい、駅前ていう信号ちゃあ、おかしかろうもん。
バッテン、ちゃーんと駅のあった証拠に名前が残っとるとタイ。 |
 | 勝田線はどうもこの信号のあたりで、いまの県道24号線と交叉しとったらしい。県道の100mほど東に南里駅跡らしき場所があって、さらに整備された緑道は南下する。
車の多か県道から、一筋外れとるだけで静寂そのもののサイクリングロードが伸びる。雰囲気抜群。
いくつかの小さな流れに架かった橋が「勝田線のもんやったとバイ」て分かる。 |
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 | ダイヤモンドシティ
広か道に飛び出した。左手に志免のダイヤモンドシティが見える。勝田線は多分ここの駐車場あたりば走ったはずバッテン、いまはがらっと様相がかわつて路線の跡形もなか。
志免の竪坑も見えてきたケン、もう安心。ダイヤモンドシティに入り込んで昼食休憩とする。 |
 | 志免駅跡
ダイヤモンドシティから志免間は緑道でたったの500m。直進で鉄道公園のホームに着いた。
志免町は、志免・御手洗、田富(たどみ)、吉原、南里、別府(べふ)ていう勝田線沿線の6つの村が合併して志免村。やがて昭和のはじめ頃に町政ば敷いたとゲナ。
なし、志免かていうと、むかし宇美八幡宮の神域ば表す注連縄(シメなわ)が張られとったけんゲナ。
駅長のシャレと同レベルで、あてにはならん。 |
 | 志免鉄道記念公園
志免鉄道記念公園には、志免町南里久雄町長の碑文がある。それによると・・・
「この地は勝田線の中心地、志免駅の跡であります。66年間の歴史を残し、昭和60年3月この路線は廃止されました。
私はこの路線のすべてを、緑道とグリーンステーションとして残し、鉄道の名残を止め後世に伝えるものであります」
永久保存ゲナ。ここの町長は凄い。
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 | ホームが残る
昭和62年3月、この公園と緑道は整備された。
廃線ば利用した緑道としては日本一の長さゲナ。
ホームば撮しよったら、大学生と思われるグループがきて、彼らもパチパチ撮りだした。
「どっから来たとお ? 」て聞いたら
いとも簡単に「東京からでぇーす」ゲナ。
廃線跡と公園ば残しとる町長も凄かバッテン、東京からわざわざ来とるこいつらも凄い。 |
 | 国鉄志免鉱業所記念碑
シーメイトに近く志免町と須惠町の町境、法照寺ていうお寺の上の住宅地にひとつの記念碑がある。
須恵町新原から発した海軍採炭所の事務所は、昭和4年10月に第5坑(志免側)に移った。
その事務所がクサ、昭和21年に火災で焼けると、新事務所建設ば須恵と志免の境に予定したとバッテン、事務所が須恵にあったら「志免鉱業所」ていうとに具合が悪かケン、玄関部分ば志免側にして建てた。
そして「志免鉱業所」の看板ば堂々と掲げたとゲナ。その跡地に「国鉄志免鉱業所記念碑」が残っとるていう訳タイ。
表は第8代国鉄総裁の高木文雄の書。裏には
「顧みるに、国営炭鉱として海軍省所管の下、この粕屋炭田に新原第一坑が開鑿されたのは、明治二十二年七月であった。爾来五十六年の長きにわたり、軍必需品の重要なる供給地として多大の貢献をしたが、昭和二十年十二月運輸省に移管のち、日本国有鉄道の組織化に入りここに国鉄志免鉱業所の誕生となった・・・」の文が見える。 |
 | 第八坑連卸坑口
シーメイトの側には竪坑のほか、昭和13年に完成し、地下500mにまで達しとったていうコンクリート煉瓦製の第八坑連卸坑口(斜坑)が見える。
斜坑も石炭採掘の施設やが、竪坑がエレベータ方式ならば斜坑はエスカレータ方式やろう。
志免の坑口は明治22年の第一坑の開坑から、昭和25年の酒殿竪坑開坑まで、14の坑口が開いとったげなバッテン、いま残っとるとはここだけ。
地下の採炭場に、坑夫やら機械工具ば運び、採掘した石炭ば地上に運び上げよった出入り口タイ。
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 | 鉄道公園ば後にして、多分このあたりも石炭積み込みのヤードやったとやろうて思われるあたりの廃線跡ば、駅長の高速チャリは軽快に走る。
田富駅跡らしき枕木やらはあったけど確認はでけんやった。
ここから100mも北はもう須惠町で、500m北に行けば旅石八幡宮がある。
貝原益軒が「筑前國續風土記」にこう書いとる。「古説に云傳ふるは、神功皇后日守にて、日の早晩をうかゝはせ玉ひ、其後此所に來り玉ふ。然るに、御産の催にて・・・」
分からんやろうケン、博多弁で翻訳すると |
 | ここにも神功皇后
そのむかし、神功皇后が日守(粕屋町)から宇美町への道ば歩いて来よんなった。
妊娠中やった皇后は、長旅の疲れもあって、そばにあった石の上に腰掛けてクサ「あなわびしや(大変疲れた)」ていいなったとゲナ。
それば聞いた住民たちは、この場所ば「わびし」ていうごとなったてタイ。
その後、わびしが「多米寺(ためじ)」になり、いまは「旅石(たびいし)」て呼ばれるごとなったと。
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 | 旅石八幡宮
地元では「タビシ」て発音したりもしようゲナ。
神功皇后が腰掛けなった石ば御神体として、八幡大神ば祀り、それがいまの旅石八幡宮ていう。
バッテン、地質学者によると、須恵川に浸蝕されたここらの丘ば「倒し(タウシ)」て呼んだ。
それに近い漢字で、感じのよか(ここ駅長シャレ)旅石ば当てただけゲナ。
どうも睡眠不足になろうごたる話タイ。
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 | 新原炭鉱所
JR香椎線・新原駅(しんばる)のそばの新原公園に、高さ7〜8メートルはあろうかていう昭和12年建造の立派な碑が立っとる。「海軍炭鉱創業記念碑」て書いてある。
明治23年(1890)、艦船用の石炭採掘のために作られた新原海軍炭坑がこっから始まったとタイ。
明治期には志免鉱業所 の主力坑として、昭和期に入ってからは国鉄直営の炭鉱としてり、昭和39年(1964)に閉山するまで 地域の産業ば、いや、日本ば支えてきた。 |
 | 光正寺古墳
ちょこっと走ると左手に丘が見えてきた。枕木ば積んだごたあ階段が上まで続いとる。
高っかとこの好きな駅長は、登らなおられんタイ。さっそくテッペンまで・・・。
光正寺古墳の築造年代は、3世紀中頃で県内の古墳の中で最も古かとゲナ。被葬者が誰かていえば、糟屋郡では最大の前方後円墳やケン、当時糟屋地域ば支配しとった豪族(王?)らしかバッテン、詳しうは分からん。
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 | 3世紀中頃いうたら、中国の「魏志倭人伝」に日本のことば「倭国」として紹介された頃タイ。
倭国にも色々な国があって、その中で福岡市(奴国=なこく)の隣にあったていわれとるとが、「不彌国=ふみこく」で、所在地は「嘉穂説」と「宇美説(粕屋)」に意見が分かれとったバッテン、光正寺古墳の調査で「宇美説=粕屋平野説」がどうも勝っとるごたあゲナ。
そげなこたあ、どげんでもよか子供達が遊びよった。古墳のてっぺんからは三郡山が見えた。
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 | 咲いてはおらんバッテン、立派な桜並木の道が出てきた。こん中ば勝田線が蒸気機関車に牽かれて走りよったとやろうか。
しもうた、もっちょっと早よう来ればよかった。
もうちょというても20年以上遅れとるっちゃケン、もう線路は跡形もなか。
もうこのあたりは宇美町で、絨毯敷いたごたあ、みごとな遊歩道に整備されとった。 |
 | 陸橋のしたばこぐる。どうも九州自動車道のごたあ。上ばビユンビユン飛ばして行きよる音がする。
下は、せかせか歩きよる人、のんびり歩きよる人、自転車の人。犬ば散歩させよるつもりで、犬から散歩させられよる人。 |
 | しゃんとしたホームの遺構が残っとった。ここは「下宇美駅」
こっからは100mも行くと、宇美川につきあたって、県道88号線は橋ば渡るけど、廃線跡は左へ曲がって川の右岸ばたどる。
宇美はこれがまた神功皇后タイ。三韓征伐のあいだ出産ば我慢しとんなったケン、帰ってきた途端もようしてきて、ここで応仁天皇ば産みなつた。
そやケン「産み」=「宇美」タイ。 |
 | これ、宇美川にかかる宇美橋。神社色しとる。信号は「宇美八幡宮北」
左が山の方で上流ていうことになる。右岸・左岸は上流を背にしていうケン、廃線跡は右岸ば行く。 |
 | 500mばかり走って、右折。宇美川ば渡つたらしか橋が、いまは宮井手歩道橋として残っとる。
この橋渡って直進したら、もうすぐに宇美の駅やったっちゃろう。
この橋も整備されて美しか。宇美町がどげん大事にしとるか見てやんしゃい。 |
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上・親柱の上の装飾はレールをモチーフにした
グッドデザイン。
左・線路と車輪が浮き上がる親柱。 |
 | 小さか溝の上ば越すこまんちょか橋にも、欄干に汽車の絵の仕掛けがある。
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宇美に着いた。正面に見えとるとは香椎線の宇美駅。勝田線の宇美駅は香椎線の駅から150mほど離れとって、丁度いまカメラのあたりやったらしか。
地元のおいしゃんに「駅はどこやったとですな」て聞いたバッテン、「もう古かことでよう分からん」ゲナ。
成り立ちが違うとはいえ、同じ名前の国鉄の駅が向かいあうて、ふたぁつもあったとは ? |
 | 安産の神
応神天皇・神功皇后ば祀る宇美八幡宮は、鎌倉時代初期から安産の神として信仰されとるとゲナ。
境内には、神功皇后が出産のときにすがりつきなったていう「子安の木」やら、応神天皇の産湯に使うたていう「産湯の水」などがある。
末社・湯方殿の前には「子安の石」て呼ばれるこぶし大の石コロが納められとって、妊婦は安産ば祈願してこの石ば持ち帰り、出産後は別の新しい石ば添えて返すていう風習がある。
石には親と子の名前が書いてあった。
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 | 宇美町は、明治21年(1888)、宇美・炭焼・井野・四王寺の四つの村が合併して宇美村が誕生。当時の戸数は560戸、人口は11,975人やったゲナ。
大正9年(1920)には、糟屋郡のなかで最初に町制ば敷いて宇美町になった。
戦後しばらくまでは石炭産業で栄えとったバッテン、エネルギー革命で炭坑はつぎつぎに閉山。
昭和38年(1963)の三菱勝田炭坑の閉山ば最後に、炭鉱はしまえてしもうた。
いまは福岡市のベッドタウンとして人口約38,000人。 |
 | 宇美から終点の筑前勝田駅跡までは、宇美川に沿うて、美しか遊歩道がつづく。
炭鉱が無うなって、志免町にしても宇美町にしても、財政的にはキツカはずバッテン、竪坑にしても、勝田線跡にしても、こげん大事にして活かしとる姿勢は実に立派。
地方行政の鑑(かがみ)ていうたら、贔屓の引き倒しやろうか。
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 | 大谷駅跡か ?
途中には小公園もあって、これならほんなこと町民いこいの道ていうてもよか。
その勲章が、第21回 緑の都市賞(2001年)の受賞タイ。
志免町から光正寺古墳〜河畔公園〜総合スポーツ公園へと続く緑道が評価された。
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 | 筑前勝田駅跡
勝田駅跡は県道68号線の「筑前勝田」バス停から、一段下がったとこにあった。
川ばはさんで北側には、宇美町の総合スポーツ公園がある。勝田炭鉱の跡地ば利用しとっちゃろう。
このあたり昔の地名は字「炭焼」 スミは隅。ヤは谷。キは辺。平地の隅っこにある浅い谷のこと。
それになし炭焼の文字ば当てたとかは分からん。確かに宝満山と四王寺山に囲まれとる。 |
 | 勝田いう地名はなかと
バス停下の公園には枕木の階段があって、知っとるもんやったら、かすかに「駅やったとかなあ」ていう匂いがする。
もともと勝田いうとは地名じゃなか。炭鉱としてその名が使われとっただけのこと。
旧海軍の炭鉱やったケン、勝つための炭田ていう縁起担いでつけた名前やったとかも知れん。
そう云やあ、戦時中に生まれた男の名前は、みーんな「勝」ばっかりついとった。 |
 | いま唯一、勝田の名が残っとるとは、西鉄バスの停留所名だけタイ。
後ろの稜線は三郡山。航空監視レーダー基地の白か建物が見える。
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 | 今回、吉塚から勝田まで、全ルートば走ってみたバッテン、勝田線が通りよった4市町村のなかで、いちばんヒチャガチャ、路線跡さえ分からんごとしてしもうとるとは福岡市やった。 |
ここで勝田線はこういう使われ方もしたていうデルタ線の話ばしよう。
昭和28年(1953) 京都〜東京間に特急列車「かもめ」がてけたとはよかとバッテン、博多に着いた列車の方向転換に困った。いまの列車なら、前後に運転席のついとるケン、運転手が移動さえすれば、どっちにでも走られるバッテン、蒸気機関車ではそうはいかん。
まして「かもめ」は最後尾に展望車がついとる。まさか京都まで後ろ向きじゃあ走られんめえもん。
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 | それで考え出されたとが、国鉄の専門語で「推進回送」 列車編成は変えんで、ごろっとひっくり返す方法タイ。
どげんしたかていうたら、すでにあった香椎線の酒殿駅から、勝田線の志免駅まで約1kmの短絡線ば敷いた。
東京から博多に着いた「かもめ」は、乗客ば降ろしたらバックで展望車ば先頭に香椎駅まで戻る。
香椎線に西戸崎のほうさいケツから突っ込んどいて、正常の向きで香椎線ば酒殿まで行く。
そっから短絡線使うて志免に着いたら、志免から勝田線ばバックで吉塚駅経由博多タイ。
博多駅のホームに着いたときには、チャーンと列車は東京の方ば向いとった。
三角形の線路ば使うて方向転換するけんデルタ線。ギリシャ文字のデルタが三角形に似とるけんタイ。納得いかんなら路線図で模型使うてやってみんしゃい。
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でけてから90年。しまえてからでも20年以上、路線跡がまぁだ残っとるとが凄か。 次回は「矢部線跡」 |