国鉄は、永年威張りたくったうえの放漫経営で、37兆円もの大赤字ばこきだして、ついに昭和62年(1987)ギブアップ。
特に赤字のひどか地方路線はみんな投げ出してしもうた。
それじゃあ「地域住民の足が無うなって困る」ていうとで、各地に第三セクターの組織がでけて、国鉄が投げ出した地方線ば引き受けた。
平成筑豊鉄道(旧伊田線・糸田線・田川線)
甘木鉄道 (旧甘木線)
松浦鉄道 (旧松浦線)
南阿蘇鉄道 (旧高森線)
高千穂鉄道(旧高千穂線 2008年廃止)
くま川鉄道(旧湯前線)
平成筑豊鉄道もそのひとつ。
社名ば昭和63年(1988)に一般公募して、最終候補に残った「新筑豊・向陽・あけぼの・サンライン」の4つから決めようとしとった時、昭和64年(1989)1月7日に昭和天皇が死になって、新元号「平成」が発表されたもんやケン、急遽「平成筑豊鉄道株式会社」て決定しスタートした。
株主は沿線市町村と民間・法人など64団体。出資比率のいちばん多か福岡県(27%)の知事が会長で、田川市(15%)の市長が社長ばするていう取り決めになっとる。
人口が減って経営は苦しかバッテン、国鉄の頃と違うて、駅にネーミングライツやら、車両のラッピング広告ば募集したり、いろいろ工夫して頑張っとる。
←直方の城跡は小高い丘でいまは公園。となりに体育館がある。
左の直方から走って来た平成筑豊鉄道の「チクマル(車両の愛称)」が、もう目の前の「南直方御殿口」駅に近づいていく。
「南直方御殿口駅」は、ヘイチクが発足して12年後の2001年3月3日に開業しとる。
相対式ホーム2面2線の無人駅。ホームの待合室は、駅前の通りが長崎街道やったケン、そればイメージしたデザインとなっとる。すぐ脇ばJ Rの筑豊本線が走る。2011年度の1日平均乗降人員は69人やったゲナ。
いま駅のある場所には、直方藩(五万石)の時代、直方城の登城口があった。
元禄元年(1688)黒田藩の三代目光之の四男・長清が、支藩の直方藩主になり、妙見山ていいよったとこに館ば造った。館がでけたケン、御館山ていうごとなった。
黒田の支藩やから一国一城令で城は造られんやったケン、館で我慢したとやろう。
ところで、なし直方ていうとか。
黒田の殿様が館がでけたとき家来達ば集めていうた。「おのおのがた、藩名が寺の名前ではいかん。(それまでは東蓮寺藩ていいよった) なんかよか名前はなかか。おのおのがた」で「のうがた」になった。ーーこれは駅長一流のジョーク。
むかしは真言宗の名刹東蓮寺があったケン、「東蓮寺」ても呼ばれとった。
その東蓮寺が室町期に兵火で寺は焼失して、のちに尊良親王が城ば築いて少弐氏と戦うたもんやケン、「皇方(のうがた)」て呼ばれるごとなったとゲナ。むかしからの言い伝えも駅長のギャグと大差なか。
東蓮寺藩(とうれんじはん)いうとは、福岡藩の支藩としてはじめに藩庁が東蓮寺(福岡県直方市)に置かれたけんタイ。
関ヶ原役の功によって筑前一国ば与えられた黒田長政は、元和9年(1623)8月4日に死んだ。息子の忠之が家督ば継いだとバッテン、長政が残しとった遺言により「忠之の弟長興に秋月5万石、同高政に東蓮寺4万石ば分けろ」てなっとった。これが東蓮寺藩のはじまりタイ。
高政は寛永15年(1638) 島原の乱に出陣して大いに働いたとバッテン、翌、寛永16年(1639)に28歳の若さで死んでしもうた。
三代目の長寛(ながひろ)は延宝3年(1675)10月に東蓮寺の地名ば直方て改め、藩名も直方藩とした。
延宝5年(1677)長寛は実父で福岡藩3代藩主・光之の後任として、福岡藩4代藩主ば継ぎ綱政(つなまさ)となったもんやケン、直方藩は廃藩とし領地は本藩に返した。
直方駅にJ Rと同居しとるヘイチク伊田線は、発車してすぐに、福岡から犬鳴峠ば越えてきた県道21号線の陸橋下ば抜ける。切り通しの右手に直方の産土神・多賀神社、石炭記念館、旧直方藩城趾、体育館などは見ながら、1kmと100mで南直方御殿口駅(みなみのおがたごてんぐちえき)に着く
なんで御殿口かていうと、むかしここが直方藩のお城の登城口やったけんタイ。
上・多賀神社。平安時代にはあったていう。元禄5年(1692)に妙見神社から社名ば改めた。イザナギ・イザナミが祭神。
右・多賀神社と続いとる直方藩の陣屋いうか館跡。今は公園になって、隣には体育館がある。
そんときに館の内堀・外堀も造成され、藩士の侍屋敷やら商家110軒の町並みも整備されて、元禄時代の城下町がでけた。
駅の近くに大切に祀られとるお地蔵さんがおんなる。「御殿口のお地蔵さん」で親しまれとる。
当時から、侍町の入り口にあったことから御殿口のお地蔵さんて呼ばれとった。
平成5年にお堂が作り替えられ、地域の人の信仰は今でも続いとって、毎年8月24日には地蔵盆供養ばしてお祀りしとる。
右・南直方御殿口駅の入り口看板。ホームは築堤の上にあるケン、階段ば少し登る。 下・駅長が行ったときも、お地蔵さんは掃除がよう行き届いとって、地蔵の本体もキレイに残っとった。
列車ば撮そうて待っとったら、2001年12月から走り出した「炭都物語号」が来た。黒ダイヤて呼ばれた石炭の黒ばベースにした車体には、かつての筑豊風景がラッピングされとった。
車内には炭鉱労働者の生活ば描いた山本作兵衛の絵のレプリカも展示されとる。
これで「月が出た出たぁ 月がぁ出たぁ ヨイヨイ」て、炭坑節ば鳴らして走ればなお面白かろう。
左・直方始発の下り列車が入線してきた。ホームの待合室は長崎街道ば意識したデザインになっとる。