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 ステンショ物語 (その149)    汽車が走り出した明治の頃                 
                        駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。

直方城趾の登り口につくった駅
  平成筑豊鉄道・伊田線      南直方        


        ホームの踏切から直方の方向。向かって右が下りのホーム。待合室の屋根が面白か。

 国鉄は、永年威張りたくったうえの放漫経営で、37兆円もの大赤字ばこきだして、ついに昭和62年(1987)ギブアップ。

 特に赤字のひどか地方路線はみんな投げ出してしもうた。

 それじゃあ「地域住民の足が無うなって困る」ていうとで、各地に第三セクターの組織がでけて、国鉄が投げ出した地方線ば引き受けた。

 平成筑豊鉄道(旧伊田線・糸田線・田川線)
 甘木鉄道 (旧甘木線)
 松浦鉄道 (旧松浦線)
 南阿蘇鉄道 (旧高森線)
 高千穂鉄道(旧高千穂線 2008年廃止)
 くま川鉄道(旧湯前線)
平成筑豊鉄道もそのひとつ。

 社名ば昭和63年(1988)に一般公募して、最終候補に残った「新筑豊・向陽・あけぼの・サンライン」の4つから決めようとしとった時、昭和64年(1989)1月7日に昭和天皇が死になって、新元号「平成」が発表されたもんやケン、急遽「平成筑豊鉄道株式会社」て決定しスタートした。

 株主は沿線市町村と民間・法人など64団体。出資比率のいちばん多か福岡県(27%)の知事が会長で、田川市(15%)の市長が社長ばするていう取り決めになっとる。

 人口が減って経営は苦しかバッテン、国鉄の頃と違うて、駅にネーミングライツやら、車両のラッピング広告ば募集したり、いろいろ工夫して頑張っとる。


←直方の城跡は小高い丘でいまは公園。となりに体育館がある。
左の直方から走って来た平成筑豊鉄道の「チクマル(車両の愛称)」が、もう目の前の「南直方御殿口」駅に近づいていく。

 「南直方御殿口駅」は、ヘイチクが発足して12年後の2001年3月3日に開業しとる。

 相対式ホーム2面2線の無人駅。ホームの待合室は、駅前の通りが長崎街道やったケン、そればイメージしたデザインとなっとる。すぐ脇ばJ Rの筑豊本線が走る。2011年度の1日平均乗降人員は69人やったゲナ。

 
いま駅のある場所には、直方藩(五万石)の時代、直方城の登城口があった。
 元禄元年(1688)黒田藩の三代目光之の四男・長清が、支藩の直方藩主になり、妙見山ていいよったとこに館ば造った。館がでけたケン、御館山ていうごとなった。

 黒田の支藩やから一国一城令で城は造られんやったケン、館で我慢したとやろう。

 ところで、なし直方ていうとか。

 黒田の殿様が館がでけたとき家来達ば集めていうた。「おのおのがた、藩名が寺の名前ではいかん。(それまでは東蓮寺藩ていいよった) なんかよか名前はなかか。おのおのがた」で「のうがた」になった。ーーこれは駅長一流のジョーク。
 
 むかしは真言宗の名刹東蓮寺があったケン、「東蓮寺」ても呼ばれとった。
 その東蓮寺が室町期に兵火で寺は焼失して、のちに尊良親王が城ば築いて少弐氏と戦うたもんやケン、「皇方(のうがた)」て呼ばれるごとなったとゲナ。むかしからの言い伝えも駅長のギャグと大差なか。


 
東蓮寺藩(とうれんじはん)いうとは、福岡藩の支藩としてはじめに藩庁が東蓮寺(福岡県直方市)に置かれたけんタイ。

 関ヶ原役の功によって筑前一国ば与えられた黒田長政は、元和9年(1623)8月4日に死んだ。息子の忠之が家督ば継いだとバッテン、長政が残しとった遺言により「忠之の弟長興に秋月5万石、同高政に東蓮寺4万石ば分けろ」てなっとった。これが東蓮寺藩のはじまりタイ。

 高政は寛永15年(1638) 島原の乱に出陣して大いに働いたとバッテン、翌、寛永16年(1639)に28歳の若さで死んでしもうた。

 三代目の長寛(ながひろ)は延宝3年(1675)10月に東蓮寺の地名ば直方て改め、藩名も直方藩とした。
 延宝5年(1677)長寛は実父で福岡藩3代藩主・光之の後任として、福岡藩4代藩主ば継ぎ綱政(つなまさ)となったもんやケン、直方藩は廃藩とし領地は本藩に返した。


 直方駅にJ Rと同居しとるヘイチク伊田線は、発車してすぐに、福岡から犬鳴峠ば越えてきた県道21号線の陸橋下ば抜ける。切り通しの右手に直方の産土神・多賀神社、石炭記念館、旧直方藩城趾、体育館などは見ながら、1kmと100mで南直方御殿口駅(みなみのおがたごてんぐちえき)に着く

 なんで御殿口かていうと、むかしここが直方藩のお城の登城口やったけんタイ。

上・多賀神社。平安時代にはあったていう。元禄5年(1692)に妙見神社から社名ば改めた。イザナギ・イザナミが祭神。
右・多賀神社と続いとる直方藩の陣屋いうか館跡。今は公園になって、隣には体育館がある。

 そんときに館の内堀・外堀も造成され、藩士の侍屋敷やら商家110軒の町並みも整備されて、元禄時代の城下町がでけた。

 駅の近くに大切に祀られとるお地蔵さんがおんなる。「御殿口のお地蔵さん」で親しまれとる。

 当時から、侍町の入り口にあったことから御殿口のお地蔵さんて呼ばれとった。

 平成5年にお堂が作り替えられ、地域の人の信仰は今でも続いとって、毎年8月24日には地蔵盆供養ばしてお祀りしとる。


右・南直方御殿口駅の入り口看板。ホームは築堤の上にあるケン、階段ば少し登る。 下・駅長が行ったときも、お地蔵さんは掃除がよう行き届いとって、地蔵の本体もキレイに残っとった。

 列車ば撮そうて待っとったら、2001年12月から走り出した「炭都物語号」が来た。黒ダイヤて呼ばれた石炭の黒ばベースにした車体には、かつての筑豊風景がラッピングされとった。

 車内には炭鉱労働者の生活ば描いた
山本作兵衛の絵のレプリカも展示されとる。
 これで「月が出た出たぁ 月がぁ出たぁ ヨイヨイ」て、炭坑節ば鳴らして走ればなお面白かろう。

左・直方始発の下り列車が入線してきた。ホームの待合室は長崎街道ば意識したデザインになっとる。

 直方は米・麦中心の農業地帯やったバッテン、江戸後期から石炭の燃料化が活発になり、筑豊炭田が開発されると石炭産業の中心地となった。

 廃藩によって城下町ではなくなり、町は一時衰退しかかったバッテン、直方の商人たちは参勤交代やその他の交通が多かった長崎街道ば、現在の市中心部ば通るルートへ変更させることに成功。享保21年(1736)に直方の古町・新町ば通るように変更されたため、一層賑わいば見せるようになった。

 
遠賀川の水運ば利用した年貢米・諸物資などの運搬、近郊農村の需要ば満たすための流通によって町としての賑わいはさらに増していった。

 寛政期(1789〜1801)の家数は220。人口928人とあり、文政年間(1818〜30)の書上帳によると、古町115軒・新町102軒・外新町445軒などとなっており、城下町当時の家数が維持されとるとが分かる。安政4年(1857)の町明細書では家数200・人数1,164とある。

 筑豊炭田のはじまり

 石炭の発見は文明元年(1469)に福岡県の三池郡稲荷山で「燃える石」がはじめて発見されたて伝えられとる。

 筑豊炭田のはじまりは、それより10年後の文明10年(1478)に
五郎太夫ていう人が遠賀郡埴生(はぶ)村で「燃える石」ば発見したいてう。

 
その石炭はクサ、はじめ附近の住民が家庭燃料として使いよったとバッテン、あんまり臭かもんやケン、はじめは嫌われとった。

 それが火力の強さが認められて、そのうちに福岡・博多に送られるごとなり、また、製塩業・鍛冶業にも使用されるごとなったもんやケン、需要が拡大したいう訳タイ。

 赤字、借金ばっかりやった福岡藩の財政再建に大きな役割ば果たすごとなったていう。

 明治に入ってからは、民間による炭鉱開発が進み、三菱・三井いう財閥が割り込んできた。

 蒸気機関車がでけて、それまで川船で運びよった石炭ば鉄道で輸送するごとなってから炭鉱事業は急激に発展しだした。

 この直方も筑豊炭田の中心地として発展し、直方機関区もでけて、ここが筑豊の蒸気機関車の中心になったもんやケン、多数の鉄道職員が勤務し、同時に鉄工業も発展した。

 古い町並は、かって一番賑やかやった「古町」はアーケードの商店街になり、アーケードのなか「殿町」辺りは伝統的な様式の家屋は無うなって近代建築や洋風建築が並ぶ。

 この道は
旧長崎街道やったけど、直方は宿場町じゃなかったもんやケン、街道に面した家屋の殆どが建て替わったとやろう。



上から
「古町」商店街。

 成金饅頭の「大石本家」
 成金饅頭は投機にやり損のうたある青年が始めたて云われとる。最盛期の1950年代には10軒もの店で作られとったっちゃが、炭鉱の衰退とともに閉店して大石、喜久屋、四宮、博多屋の4 軒だけ。

 明治34年にでけた江浦医院の木造洋風建築。今も現役の医院として活躍中。

 直方機関区は明治24年にでけて、平成7年門司機関区に統合されるまで100年も筑豊の機関車ばお守りしとった。
 最盛期には、機関車43両が配置され、職員は415人ば数えたていう。

   直方いうたら石炭タイ。

 南御殿口駅ばでた下りの列車は、やがて大きく左へカーブして↑遠賀川ば渡る↓。
 
 ここに2本並んで架かっとる鉄橋が「嘉麻川橋梁」 遠賀川に架かっとるとい、なし嘉麻川橋梁か ?

 下流の植木〜中間間に遠賀川橋梁いうとが先にでけとったけんタイ。遠賀川の上流ば嘉麻川ていう。
 この古かトラスの鉄橋、設計はCooper,Schneider1898。
 製作者はPatent shaft & Axletree。製作年は1907て上り線の銘板で読めた。

 1907年(明治40)いうたら、伊田線が複線化されたとが明治44年やケン、上り線の橋梁の方が後からでけたていうことになる。
 橋脚は上り線が全部煉瓦で、下り線には切石も使うてあった。

 ヘイチクの列車は、この古か国鉄からの遺産も引き継いで元気にすれ違うていった。
 

場所・福岡県直方市新町二丁目。九州自動車道を「八幡IC」で下りる。下りたら取付道路をまっすぐに国道200号線バイパスにはいり約3km南下。「三本松」で下道に降りる。県道28号線ば西へ約2kmで遠賀川を日ノ出橋で渡る。渡ってすぐ左折。曲がったら右に直方郵便局・警察・市役所ば見ながら川沿いに約1.5km走る。
「勘六橋西」の信号過ぎて200mで右折すれば、200mで駅。              取材日2010,2,20

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