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堀 越 峠



堀越トンネル国道162号の堀越トンネル付近


1堀越峠(福井県おおい町名田庄納田終・京都府丹南市美山町)

 おおい町名田庄納田終の南端、京都府境にある標高510mの峠で、現在、峠下を堀越トンネルが貫通し国道162号が通っています。

 峠名は昔、峠に設けられた関の堀に由来するとの説がありますが、峠下の棚橋集落から峠に向かう旧道が堀越谷(南川支流)を通っているので、この名と関わるともいわれます。

 古来、小浜又は高浜と京都を結ぶ最短ルートとして、丹波道又は周山街道の一部になっていました。

 この道筋は、小浜から南川に沿って久坂を通るルートと、高浜から福谷坂、石山坂を越えて坂本川沿いを進むルートが口坂本で合流した後、

さらに納田終の棚橋集落から堀越谷を上り、丹波・大及(廃村)へ下って、美山町鶴ヶ岡(丹南市)を経て周山街道へ向かっていました。



堀越峠の旧道名田庄を俯瞰する


2峠の主な歴史・エピソード

◎ 江戸中期から小浜藩発行の印札を携帯して300人余りの行商人が若丹国境の諸峠を越えたといいます。

◎ 近世から大正期まで、塩鯖はじめ若狭の海産物やコメだけでなく、北海道や東北から小浜に陸揚げされた昆布や鰊等も行商人の背で鶴ヶ岡へ運ばれました。

◎ 俳人の与謝蕪村もこの峠を越えて「夏山や通いなれたる若狭人」の句を残しています。

◎ 幕末、将軍に従った小浜藩主酒井忠禄は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、わずかな藩兵に守られ、この峠を越え小浜へ逃げ帰ったといいます。

◎ 戦前の昭和11年(1936)峠下にトンネルを掘り、小浜から鶴ヶ岡を経て山陰線の殿田駅(旧船井郡世水村)に

接続させる京若鉄道が計画されましたが、日中戦争の勃発により着工が無期延期になりました。

◎ 第二次大戦後の昭和21年(1946)6月、京都府の深見峠(北桑田郡平尾村と弓削村との間)のトンネル工事が

着工されたのをきっかけに京福路線問題が再燃し、これが幸いして昭和26年(1951)車道が完成、堀越トンネル着工の導火線となりました。

◎ 昭和30年(1955)頃、京都〜小浜間を国鉄定期バスがこの峠(旧道)を越えて一時期運行しました。

◎ 昭和49年(1974)峠の東下を全長1394mの堀越トンネルが貫通し、冬期の通行も確保されました。

◎ 若丹国境を越えた諸峠のうち、今では唯一、若狭と丹波を結ぶ道として堀越峠道は生き残りました。

◎ 旧峠道は幾度も改修されたため、現在、旧道をたどるのは困難ですが、峠道の京都府側

途中から分岐して西方にある福居谷へ越える熊壁越えが本来の旧道だったようです。

◎ 若丹国境には丹波・京都へ向かう数多くの諸峠がありましたが、平均高度700mほどの峠が多く、そのうち一番低い峠が堀越峠でした。

 そこで、この峠道に車道、トンネルがつけられ、若狭と丹波・京都を結ぶ主要道に選ばれました。


名田庄風景道の駅「名田庄」


3峠下の集落と史跡

(1)納田終
(おおい町名田庄納田終)

 納田終は南川の最上流域、山間部に位置し、中世名田荘のうち「上村」と呼ばれた地域です。

 地名の由来は、名田庄の終わるところから名田終と呼び、それが転訛したものといわれます。

 戦国期に見える村名で、当村は名田荘時代に南川最上流の山峡地にあったため、近世に入ってからも中世荘園の遺訓を根強く留め、

太閤検地以降も「年寄衆」と「平の百姓衆」に分かれ、土地管理形態が依然として存続しました。

 なお、当地には中世京都の乱を逃れ、永正年間(1504〜1520)から慶長5年(1600)まで90年間、この地を本拠とした陰陽道の有力家系安倍家三代にわたる遺跡があります。

 当村は東西6㎞に及ぶ狭くて長い山村で、尼来峠(甘木峠)を越えて丹波へ通じた広大な山林に生業を求めました。

 江戸期、村落を構成する小字として南(南村)、新井(仁井)、白矢(白屋)、小和田、棚橋(種橋)、

小向、上ヶ谷(中野)、老左近(追迫)、野鹿(小松)、老良(於伊羅)、片又(都々羅野)という名の小集落があり、家数は109戸ほどあったといいます。

 小浜〜納田終間を国鉄定期トラックが運行するようになったのは昭和19年(1944)のことで、

それ以前の林産木材は南川を利用して筏で搬出したり、木炭は荷車や荷馬車によって久坂まで運び、川船で小浜へ運んでいました。

 また、納田終の棚橋から堀越谷を上り、堀越峠から丹波・大及へ下って周山街道へ向かう旧道がありましたが、

 自動車で物資の輸送ができるようになったのは、昭和26年(1951)堀越峠の開発工事が完成した後のことです。

 明治22年(1889)奥名田村、昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)おおい町名田庄納田終となりました。



(2) 大及
(京都府丹南市美山町)

 かつて存在した集落ですが、今は廃村となって久しく地図に地名が出てきません。

 大及村は江戸期、園部藩領に属し、丹波国桑田郡の由良川支流、棚野川の最上流部に位置した村です。

 若丹国境の堀越峠を経て小浜へ通じる街道が通っていました。村高は20石余で、幕末の家数4、人数17、牛1と小集落で木地師の集落でした。

 杓子などを作って若狭に持参し、米麦と交換して生業を営んでいたといいます。明治4年(1871)園部県を経て京都府に所属し、明治9年(1876)盛郷村の一部となりました。


天社土御門本庁土御門家墓所


(3)土御門家(おおい町名田庄納田終)

 わが国陰陽道の賀茂家と安倍家のうち、天文道を主として暦を編纂した安倍家のことで、土御門家とはその称号です。

 祖先を安倍清明とし、建武元年(1334)10月13日幕府は名田荘下村を泰山府君祭料(道教の神)として安倍家に施入したといいます。

 16世紀はじめ天文博士安倍有宣は、この名田荘下村納田終の地に祠を建て天文道場を開きました。

 そして当地で朝廷や幕府と親交を保ちながら、若狭守護被官粟屋元隆らの庇護を受け、有宣、有春、有修の三代、約90年間を過ごしました。

 慶長5年(1600)まで当地で暦作りに携わりましたが、その年、安倍家は若狭から京都倉橋家へ転居しました。

 その間、当地に京風の文化を残しました。おおい町名田庄納田終にある墓所は、昭和32年(1957)7月30日県指定史跡になりました。



ダム湖岸にある小松重盛塚納田終小松の砂防ダム


(4) 小松重盛塚(おおい町名田庄納田終)

 納田終の小松地区に平清盛の嫡男・小松重盛の塚があります。

 元の場所は昭和63年(1988)南川砂防ダムの竣工で湖底に沈みましたが、今も湖岸の道沿いに祠と五輪塔が移され祀られています。

 小松重盛は平清盛の長男、平重盛(1138〜1179)のことで、平安末期、平家全盛期に内大臣となり、

京都東山の小松谷に邸宅を構えたことから小松内府と呼ばれた人です。

 越前国司として敦賀と琵琶湖を結ぶ深坂峠の運河開削を試みたことでも知られています。

 名田庄納田終の小松集落には、平重盛ゆかりの人物が山城国からこの地に落ち延び、終の棲家にしたという伝承があります。

 ただ、平家落人伝説は日本全国に150ヶ所余りあり、後の時代の落武者が草分けになった集落や

木地師が開拓した村も平家落人伝説を伝えていますので、その真偽は確かめようがありません。

 ただ、歴史的に平家は越前・若狭を領地にした時代があったので、その縁で平家の落人が名田庄の山奥に逃れ、隠れ住んだことがあったかもしれません。




主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県   角川書店発行
福井県大百科辞典       福井新聞社発行
歴史街道             上杉喜寿著
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
福井県史通史編2中世          福井県
福井県史通史編3近世一         福井県




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