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加斗坂



国道27号加斗トンネル遠景国道27号加斗トンネル近景


1 加斗坂(小浜市)

 小浜市の西部、西勢から加斗へ越えた標高約155mの坂で、丹後街道が通っていました。坂名は坂下の加斗に由来します。

 小浜防衛の要地として永禄年間(1558~1569)高浜(大飯郡)の逸見昌経が反乱したとき、守護武田義統の被官大塩氏らが加斗坂を守ったといいます。

 坂下に昭和41年(1966)加斗トンネルが完成し国道27号が通り抜け、JR小浜線も隧道で並走しています。



2 峠下の集落

(1) 西勢
(小浜市)

 杉谷川流域に位置し、北は小浜湾に面した集落ですが、史料上、西勢という村名が出てくるのは

慶長7年(1602)以降で、それ以前は勢井村といい、室町期に村名が出てきます。

 最初は小浜日蓮宗長源寺蔵の応永5年(1398)3月、日伝上人曼荼羅本尊に「若狭国勢井左近将監長信授与」とあり、

 当村は早くから京都大国寺派長源寺との関わりがあったようで、戦国期に当村内で多くの田地が長源寺に売却されています。

 次に康正2年(1456)6月、安芸・若狭両国の守護武田信賢が安芸国人吉川之経に若狭1ヶ所「勢井村」を与えています。

 応仁元年(1467)2月、武田信賢安堵状で之経と同様に吉川元経にも勢井村を知行するよう述べおり、吉川氏の勢井村知行がしばらく続いたようです。

 文明16年(1484)2月、田地売券の売主に「東せい」と記載され、この頃から東勢井の集落が形成されていたようです。

 明応2年(1493)3月、東勢井の左衛門五郎が売却した「東勢井散田」と同年4月に同人が売却した「勢井村散田」の記載に勢井村と東勢井村が区別されています。

 天文4年(1535)2月、惣百姓8名が連署し「勢井村新田」を買取った者に対し、この売買を承認し保証する旨を誓約しており、

 東勢井村が成立しても勢井全体の惣百姓結合は存続していたことが分かりますが、この後は勢井村の呼称や農民結合は史料上見えなくなります。

 つまり、勢井村は東西に分かれ、東勢井と西勢井として自立化がより強まったものと考えられます。そして慶長7年(1602)に西勢井村が史料に初めて出てきます。

 江戸期、若狭国大飯郡に属し小浜藩領、村高約300石余、戸数約50戸、人口約263の西勢村で、

明治22年(1889)加斗村の大字、昭和30年(1955)小浜市の大字になりました。


勢浜沖勢浜海岸


(2) 加斗
(大飯町・小浜市)

 加斗は飯盛山(標高584m)の北方、小浜湾に面した地域で、昭和30年(1955)以前は大飯郡に属していました。

 若狭国大飯郡に属し、中世、加斗荘という荘園がありました。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案に

 11世紀末までに形成された荘園である本荘のうちに「賀斗庄」40町が見えますが、国衙領のうちにも「加斗加納」24町2反200歩があります。

 加斗加納とは開発や買得によって加斗荘の付属地とされたところですが、国衙に租税を納入しなければならず紛争が生じやすかったといいます。

 加斗加納の領主は園城寺の門跡寺院である円満院でしたが、国衙と争いがあり、円満院が支配することになったようです。

 その後、応永24年(1417)6月の摂津国金竜寺縁起に、金竜寺を再興した千観(10世紀の人)は寺門の僧であったので金竜寺は園城寺の末寺となり、

 後嵯峨院の弟の円満院門跡は、その母が別相伝の地として有していた「若狭ノ加斗加納大島荘」を金竜寺の寺領とした伝えています。

 現在、加斗は海に面した二つの谷からなっていますが、本所川の谷が本所方、飯盛川の谷が半済方であったと考えられています。

 戦国期にも円満院の支配が続けられたことが窺われ、荘名は永禄7年(1564)8月26日の武田義統判物まで見ることができます。

 明治22年(1889)東勢、西勢、飯盛
(はんせい)、本所、岡津(おこづ)、鯉川、長井の7ヵ村が合併して加斗村が成立、役場を本所に置きました。

 村名は古来から加斗組を総称し、かつ中世の荘園名に由来します。大正9年(1920)国鉄小浜線が開通し、村内に勢浜、加斗の2駅が設置されました。

 昭和30年(1955)小浜市、本郷村の各一部となり、長井は本郷村の大字、本所は加斗と改称し、他の5大字とともに小浜市の大字になりました。

 昭和42年(1967)国道27号が全線舗装され、昭和41年(1961)加斗トンネルが完成して交通の便が良くなりました。


加斗海岸蒼島


3 名所、旧蹟など

(1) 加斗の松原
(小浜市)

 小浜市の西部、下加斗の海岸に、かつて東西約600mにわたる松原がありました。

「若狭郡県志」に「加斗郷海畔ニ在リ、向若録ニ云フ、加斗ヘ小浜城西南二里ハカリ在リ、

 海浜ノ地沙斥平穏、長松列立シ緑陰に繁茂シ行旅ノ行キ還リ者ハ必ス休憩シ目ヲ怡シマセル」とあります。

 残念ながら現在、松原は見当たらず加斗海岸は海水浴場になっています。



(2) 蒼島
(小浜市)

 小浜市の西部、加斗海岸の北東約1㎞の沖合に面積0.02㎢、標高約44mの島が蒼島です。

 島名は冬も緑濃い暖帯林によるとか、弁財天を祀る蒼島明神があり、東側に洞穴があります。

 タブ、スダジイ、ヤブツバキなど暖帯性広葉樹林が優先する40科77種の植物が自生し、蒼島暖地性植物群落として国天然記念物に指定されています。

 なかでもナタオレノキは日本海側の北限であるといいます。伴 信友は「白浪に独りさわがぬ蒼島を夜はいさりの火影にぞ見る」と詠んでいます。


飯盛寺本堂(重文)飯盛寺仁王門


(3) 飯盛寺
(小浜市)


 飯盛山(標高584m)の北側山麓にある寺院で、高野山真言宗、山号は深山と号す。本尊は薬師如来、縁起によれば霊亀・養老年間(715~723)の開創といいます。

 文和年間(1352~1355)後光厳天皇の勅願によって再興され、盛時は12坊を数えたといいます。

 しかし。文明16年(1484)火災に遭い、本堂などすべてを焼失しましたが、文明18年(1486)円満院門跡ニ品親王によって本堂、仁王門が再建されたと伝えます。

 現在は文明18年(1486)再興の本堂と江戸末期再建の仁王門が残るだけですが、本堂は昭和58年(1983)国の重要文化財に指定され、

 また同寺の如法経料足寄進札は昭和53年(1978)有形民俗文化財に指定されています。


岡津製塩遺跡岡津製塩遺跡


(4) 岡津製塩遺跡
(小浜市)

 小浜市岡津字塩汲場に7~8世紀の土器製塩遺跡があります。小浜湾にやや突出する地形をして、東から西へ延びる段丘の最下位に位置した所です。

 前面は海岸部に接し、面積は約5000㎡あり、若狭湾岸に点在する製塩遺跡は、前方が海、背後は山という狭い立地にあって、

 製塩活動に必要な日照時間がきわめて短いのが特徴ですが、当遺跡は早朝から日没まで太陽を受ける場所にあって製塩には最適の場所です。

 遺跡は300㎡の海水を濃縮したと考えられる焼土面を中心に、下辺の長いL字形の配列で

 7世紀末~8世紀初頭と8世紀代の2時期にわたる製塩炉址群及び土器片が検出されました。

 東側では6面の敷石炉がみられ、内4面はやや深い層にあって、判出遺物から7世紀末~8世紀初めの時期と推定されました。

 藤原宮跡出土の若狭関係木簡で調塩として、この周辺から送られたことは明らかであり、それには丁酉年の記年銘が記されています。

 この遺跡は藤原宮出土の木簡と対応され、同年次の土器製塩遺跡として若狭で初めて発見されたもので岡津式と名付けられました。

 一方、他の2面と西側3面は従来から船岡式と呼ばれる8世紀代の敷石炉で、当遺跡が藤原宮、平城宮の年次に伴う遺構であることが判明しました。

 しかも、海岸部では旧海岸線が残り、塩汲場、採かん場、製塩炉、煎ごうという古代塩つくりの作業工程の全容を知ることができる貴重な遺跡です。

 昭和54年(1979)5月国の史跡に面積4981㎡が指定されました。


製塩土器若狭国遠敷郡からの木簡


主な参考文献

角川地名大辞典18福井県    角川書店
越前・若狭山々のルーツ   上杉喜寿著
越前・若狭峠のルーツ    上杉喜寿著





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