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倉見峠



国道27号倉見峠付近国道27号倉見峠付近


1倉見峠(三方遠敷郡若狭町)

 安賀里峠ともいい、若狭町倉見と同町安賀里、下タ中の境にある標高約130mの峠です。

 峠名は両側の峠下集落名によります。かつてここを丹後街道が通り、現在は国道27号が引き継いでいます。

 鰣川
(はすかわ)の上流にある倉見側、鳥羽川の支流安賀里川の上流にある安賀里側とも比高50mですが、今の峠はかなり切り下げられています。

 急勾配ではありませんが街道の要地だったのか、安賀里の東の山頂に中世の城跡があり、

峠道を扼していました。またJR小浜線は、この峠を避けて北寄りに迂回し十村から大鳥羽に出ています。



2 峠下集落の歴史

(1) 倉見
(若狭町) 

 三十三間山の西麓、鰣川の上流域に位置した集落で、若狭国三方郡に属し、中世、倉見荘があったところです。

 荘名の初見は嘉禎元年(1235)12月の延暦寺政所下文写によると、倉見荘は新日吉社領であり、

 当荘内の三川浦住人(海人)は新日吉社の神人であるのに、日吉社の大和房が強引に当荘に乱入して

 日吉社神人化を図っているのは不当であるとする当荘雑掌からの訴えを受けて、延暦寺は大和房の乱入狼藉を禁止しています。

 若狭国では平安期から鎌倉期にかけ、日吉社や新日吉社による住民の神人化が盛んでしたが、

当荘もこうした新日吉社神人化が先行し形成された荘園だったと考えられます。

 荘の中心部は鰣川上流域の谷から平野部にかけての耕地を占めているにもかかわらず、飛び離れた地である三川浦(御賀尾浦、御面浦)をも

 神人化して包含したものと思われます。三川浦は神子浦を含む海辺部に比定されています。



(2) 安賀里
(若狭町)

 上中町郷土史に「安賀里の名称は安賀里郷の起源に出ている如く、源頼朝此の地を安賀氏の荘園に定めしより起こると云い、

 尚一説に安賀里に里の称が残るは安賀郷を建置せられし頃、郷の条里坪の区画ありに因るか」と記しています。

 このように安賀里の地名は、古代、安賀郷、中世、安賀荘の遺称のように思われます。安賀里は若狭国遠敷郡のうちに属しました。



(3) 下タ中
(若狭町)

 鳥羽谷の中央を流れる北川の支流鳥羽川と安賀里川に挟まれて位置した集落で、字大谷に6世紀前半の築造と推定される大谷古墳があります。

 下タ中村は明治17年(1884)に有田村から分村した名称で、近世、有田村に属していました。そこで通称有田村を西有田村、下タ中村を東有田村と呼んでいました。



(4) 有田
(若狭町)

 鳥羽谷の中央を流れる北川の支流鳥羽川の右岸に位置した集落で、弘治年間(1555~1557)に安賀高賢が在地を支配していたと伝えています。

 近くの高畑山に新田義治が拠ったという中世城跡があり、その麓に新田義治の碑があって、天保年間(1830~1843)に新畑氏が建てたといいます。

 遠敷郡のうち安賀荘に属し、当地には小安賀里。安賀里山、赤尾野などの小村がありました。

 文化2年(1805)小浜藩から村分けを命ぜられ、宗門人別帳、租税上納方など2ヵ村として扱われましたが、

 免状だけは有田村のままであったといい、長年の係争後、明治17年(1884)当村から下タ中村が分村しました。



主な参考文献

角川地名大辞典18福井県    角川書店
越前・若狭峠のルーツ    上杉喜寿著






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