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関  峠



関峠付近県道225号(旧国道27号)関峠付近にある石仏安置の祠


1関 峠


 敦賀市と三方郡美浜町の境に旧越前国と若狭国を分けた標高約100mの関峠があります。今は丹後街道(現県道225号・旧国道27号)とJR小浜線が通っています。

 峠名は、敦賀市関付近に古代の「関」が置かれたことに由来するとか、野坂山地と敦賀半島の鞍部にあたり、

 峠の西の佐田村(美浜町佐田)と東の関村(敦賀市関)との間に四角の石(国境石)があったといいます。

 この国境石から丹後の吉坂まで17里31町(約71㎞)、敦賀まで2里34町(約12㎞)、小浜まで9里(約36㎞)あったといわれます。

 関峠は小さな峠でしたが、どうしても通らなければならない所で、ここを押さえられると越前、若狭のどちらへも入れない軍事的に重要な要所でした。

 敦賀津を起点とする丹後街道は、旗護山南の狭隘にある関峠を抜けて若狭国に入りました。

 丹後街道と歌ヶ谷へ入る道が交わる辻に石仏が祠に安置され、正安2年(1300)6月3日の年代が刻まれています。


石仏安置の祠全景祠内の石仏


2 峠下の集落

(1) 関
(敦賀市)

 敦賀平野の南西、大瀬川によって形成された小扇状地に家数40ほどの関村がありました。

明治22年(1889)粟野村の大字、昭和30年(1955)から敦賀市の大字となりました。

 峠近くにある歌ヶ谷には、平安末期、越前守となった平 重盛が「歌渓庵」と名付けて寓居を構え、

 敦賀〜琵琶湖間の水路開削調査のため3年間滞在したと伝えられ、また、近くに重盛の墓と称される無縫塔が残っています。

 村内には浄土宗鎮西派歌渓院という寺院があり、「若州管内寺社什物記」は「小松ノ内大臣平ノ重盛公御建立、

則チ前ノ内大臣浄蓮大禅定門位牌有之、裏書ニ治承四年(1180)四月朔日ト御座候」と記してあります。

(2)佐田
(三方郡美浜町)

 金瀬川の下流、若狭湾の中の織田湾に面した海岸段丘上の農村集落で、若越国境だった関峠の上り口にあたりました。

 佐田は公称で、地元では普通は織田
(おった)と呼び、佐田海岸を織田浜と呼んでいました。

 村開拓の発祥地は、織田神社周辺とも八柱神社付近とも伝えられ、特に八柱神社の周辺の丘陵には

佐田古墳群と呼ばれる古墳後期の古墳が集中し、金環、家形埴輪などが出土しています。

 中世、若狭国三方郡織田荘山東郡のうちで、「国吉籠城記」には永禄6年(1563)に佐柿国吉城に

籠城した武士のうちに佐田村の山東十郎、麻生紀伊守、田辺半大夫を挙げています。

 地内中山の付城、狩倉山の付城は、当時の山城跡であるとのこと、この合戦の際、羽柴秀吉は苦戦をし

 徳川家康の助力で急死に一生を得たので、織田浜で家康の手を握って礼を言ったとのことです。

 また芳春寺の僧が朝倉方に内通したため信長に織田河原で梟首
(きょうしゅ)されたと伝えられます。



主な参考文献

角川地名大辞典18福井県   角川書店
越前・若狭峠のルーツ   上杉喜寿著
越前・若狭歴史街道    上杉喜寿著






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