このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




知 井 坂



知井坂を望む知井坂位置図


1知井坂(おおい町名田庄・南丹市美山町)

 おおい町名田庄堂本の南端にある小松谷と染ヶ谷に挟まれた稜線(尾根道)を登り、八ヶ峰(標高800m)の西方、標高710mの鞍部を越えた峠です。

 知井坂越えといい、小浜と丹波・京都を結ぶ丹波道の一つに挙げられ、峠名は知見(南丹市美山町)へ越えたから、そのように呼ばれたとのことです。

 また血坂ともいわれ、千坂とも記されています。その由来は、この坂を越えるのに血涙を流したからとか、南北朝時代の激戦で血の川が流れたからともいわれます。

 江戸期から大正期まで、城下町小浜から久坂村までは南川の舟運を利用し、堂本村の南端から尾根道をたどって

 知井坂を越え、主に知見の八原(廃村)へ牛の背に付けた若狭米を運んだといいます。

 特殊な鞍を使って、牛を追いながら峠を越え、丹波の由良川沿いにあった田歌
(とうた)、芦生(あしう)などの村まで日帰りしたようです。

 雪が消えるのを待って、年間1万3,000俵余の米が運ばれましたが、大正12年(1923)由良川沿いに

車道が開通するとともに往来が減り、東の五波坂、西の堀越峠の改修とともに廃れました。



峠近くの手水鉢峠近くの地蔵と石塔


2 峠下の集落

(1)堂本
(おおい町名田庄堂本)

 南川の中流域、その支流堂本川流域に位置した地域ですが、古くは知見郷に属し、井上、塚本、坂尻、笹尾など小村を併せ堂本村と呼んでいました。

 江戸期の家数28、人数149の村で、主に農業と炭焼きを生業にしており、地内の東側にある仁吾谷は、古来、栃や欅が生い茂る深い谷で、木地師たちの集落がありました。

 明治22年(1889)南名田村、明治24年(1891)知三村、昭和30年(1955)から名田庄村の大字になり、平成18年(2006)おおい町名田庄堂本になりました。

 村の南に標高800mの八ヶ峰と呼ぶ高山があり、その西方の鞍部を越える丹波・京都への道が早くから開け、知井坂(血坂)越えと呼ばれました。



(2)槇谷
(おおい町名田庄槇谷)

 南川の中流、その支流槇谷川流域の山間部に位置し、住民は木曽義仲の末孫であるという伝承を受け継ぎ、左近、刑部、治部太夫の3家を村の草分とします。

 江戸期、耕地少なく、住民は山に生業を求めましたが、特に小浜藩の特命を受けて木太刀や槍の柄の製造を主業としました。

 明治22年(1889)南名田村の大字となり、戸数17、人口84、明治以降は鍬柄の製造に変わり、明治末年には製炭業に従事しました。

 大正期に至り杉の植林が盛んになり、現在も山林によって生計を立てる人が多いようです。



3 知井坂付近の歴史・伝承

◎ 峠近くの若狭寄りに手水鉢があり、清水が流れ込んでいます。石の前面に「船願主 小濱名田庄志中

 樋願主八原喜右衛門 世話人忠治郎 享和二年戌六月」と刻まれ、1802年に小浜、名田庄、知見八原の有志によって設置されたことが分かります。

◎ 峠の丹波寄りにある舟形光背をつけた石地蔵と石塔は、知見では南北朝期の武将新田義貞が建てたものと伝えられています。

◎ 木曽義仲の妻、巴御前は義仲敗死後、望まれて和田義盛に嫁し三人の子を生み、三番目を朝比奈三郎義秀(大日本史では朝夷三郎)といいました。

 三郎は北条方に攻められ安房国(千葉県)に敗走後、行方不明と伝えられたが、その実は安房へ逃げたと見せて京都に入り、ここ八ヶ峰付近に隠れようとしたといいます。

 しかし露見して急追され、この峠で激戦の末、再起不能と諦め一の谷の深淵に槍を胸に当て落下自刃したといい、この峠は決戦の血で赤く染められたので血坂というと大日本史に書かれています。

◎ 峠下近くにある槇谷集落(おおい町名田庄槇谷)は、木曽義仲の家臣達が隠棲し木刀や槍の柄作りを続け家系を誇り続けてきたといいます。

◎ 峠下付近にある挙原、虫谷、小倉畑、染ヶ谷辺りの集落(各集落共、おおい町名田庄地区)は、近江から入った木地師たちが先住の村人と共に定住したと伝えます。

◎ この坂も「夜出担ぎ
(よでかつぎ)」の人達が、塩、魚類や木炭、穀物、衣類などの生活必需品を背負って越えたといいます。

◎ 堀越峠よりも古い峠といわれ、昔はこの知井坂が京都に近いので急用にはこの坂道が利用されました。

◎ この峠を挟んで同じ地名が多いことです。例えば丹南市美山町にある「知見
(ちみ)」「下(しも)」「中(なか)」などの地名はおおい町名田庄にもあります。

◎おおい町名田庄にある久坂、挙野、小倉畑などは鎌倉期から江戸期にかけ「知見村」と呼びましたし、丹南市美山町「知見」も昔からあった地名です。

◎「知見」の由来は、往昔、若丹国境付近で大きな戦
(いくさ)があり、多くの血を見たことによると伝え、古くは「血見」と書いたといいます。

◎ 美山地区内の知見谷、知坂、八原なども、この戦に因む地名で、血が流れた坂道が血坂(知坂)、

血に染まった谷川が血見谷(知見谷)、弓矢の矢が集中した地が矢原(八原)とされるとあります。〈北桑田郡誌〉

◎ 大正7年(1918)頃、京都から小浜への鉄道が計画された際、コースの一つに挙げられましたが、実現しませんでした。



4 その他若丹国境尾根の諸峠

 知井坂の東方、水平距離にすると2里(7㎞)ほどの若丹国境尾根上には五つの峠がありました。

 西から順に五波坂、権蔵坂、杉尾坂、野田畑峠、佐布峠と並び、いずれも京道だったといいます。

 これら諸峠は必要に迫られ開かれたのでしょうが、時代の変遷とともに往来する人も絶え、今は人口に膾炙されることなく、ほとんど廃れました。

 そのうち史料で分かる峠を記しておきます。



五波峠の石碑権蔵坂


(1) 五波峠(古奈美坂)

 おおい町名田庄染ヶ谷集落を通過し、染ヶ谷川左岸に渡りセイ谷の奥へ続く坂道を上って五波峠に至ります。

 今は染ヶ谷川の本流を遡って林道が五波峠まで続いています。小浜から堂本まで4里10町、この辺りから五波峠まで1里とされていました。

 この峠の西にある知井坂と共に、昔から人馬の往来があり「武者道」としても利用されたそうです。

 小浜を領有した武田、京極、酒井の諸家が一朝有事に際して、この坂道に兵馬を進めたからでしょうか。

 大正12年(1923)この坂道は荷馬車が通れるよう改修され、以後、苦しい登坂が続く知井坂より迂回路でしたが五波峠が利用されるようになりました。


 現在、峠の頂上近くに広場があり、峠の南側には「五波峠」と刻まれた大きな記念碑が建てられています。

 また峠から東方の尾根伝いに「八ヶ峰」(標高800m)へ至る遊歩道が続き、多くのハイカーが利用しています。

 また、丹南市美山町側の林道は全線舗装され、ビレッジラインという名で観光林道として利用されています。



(2) 権蔵坂

 おおい町名田庄染ヶ谷と丹南市美山町芦生を結んだ標高640mほどの峠道です。現在、染ヶ谷側から上る人はほとんどおりませんが、

 五波峠から尾根伝いを歩くか、丹南市美山町芦生からヒツクラ谷(櫃倉谷)を上っていく登山者が多いようです。

 大正12年(1923)由良川沿いの道が開削され、田歌ー芦生間に車道が開通するまでは、この峠越えで芦生まで若狭米が運ばれたといいます。

 峠名の由来は、米を運んだ若狭馬方の権蔵という人が、この峠道を開いたということです。




(3) 染ヶ谷(おおい町名田庄染ヶ谷)

 南川の中流、同支流染ヶ谷川流域の山間部に位置し、古くは知見郷に属した村です。

 明治初年、志見ヶ谷村が改称し染ヶ谷村となり、明治22年(1889)南名田村の大字染ヶ谷、明治24年(1891)知三村の大字染ヶ谷、

昭和30年(1955)名田庄村の大字染ヶ谷、平成18年(2006)おおい町名田庄染ヶ谷となりました。

 明治22年(1889)戸数7、人口40、山林340町を所有し、明治以降、全戸が炭焼きを生業としました。

 毎日、炭を背負って久坂(おおい町名田庄久坂)まで出て、食品を買って帰りました。

 また、栗の角材、杉の円木を筏に組み、川に流し久坂まで運ぶ仕事にも従事しました。

 この村より古奈美坂(現五波峠)越えで丹波道に通じる道が古くから開けていたといいます。(若狭郡県誌) 他方、丹波の芦生へ越える坂を権蔵坂と呼んでいました。



若丹国境尾根略図杉尾坂(峠)


(4) 杉尾坂(峠)(おおい町名田庄虫鹿野・丹南市美山町)

 おおい町名田庄虫鹿野から、さらに久多川を上流へ遡り、分流している虫谷川沿いを源流に向かって上りつめると

杉尾坂に至るはずですが、坂道らしきものはなく、今では林業従事者以外、ここを上る人はいないようです。

 南丹市美山町側は京大芦生演習林があって林道なども整備され、ここを八ヶ峰や三国岳へのハイカーが利用し、杉尾坂から尾根伝いをハイキングしています。

 峠には標識も尾根道もありますが、峠道としての役目は終わり、往時を偲ぶ歴史も記すべきエピソードも出てきません。

 三国岳の西方尾根には、かつては佐布峠、野田畑峠、杉尾坂、権蔵坂、五波坂など幾つもの峠があり、

それぞれ利用されましたが、時代の変遷とともに人口に膾炙されることなく廃れていきました。

 今は登山愛好家が尾根伝いの目印に、峠の所在地を残しているのが往時を偲ぶ、せめてもの慰めといえましょう。



(5)虫鹿野
(おおい町名田庄虫鹿野)

 南川の中流、同支流久多川下流域に位置した地名で、この流域一帯の山間部を久多河内(来田河内)と呼びました。

 久多河内一帯の小集落は、すべて奥深い山間にあり、丹波、近江、若狭に跨る三国岳(標高776m)を中心に木地師の集団が活躍した集落でした。

 久多河内からは針畑越え、杉尾坂など近江や丹波へ通じる間道があり、隣国との往来が盛んだったようです。

 江戸期、虫鹿野村から久多川上流域の村々は、当村の枝郷とされ、虫鹿野一村としてまとめられました。本村の虫鹿野村は家数23、人数154人でしたが、

明治22年(1889)本村、枝郷ともに南名田村の大字となり、虫鹿野、虫谷、木谷、出合、永谷、挙原となって、併せ戸数77、人口427人になりました。

 炭焼きを生業とした家が多かったようです。明治24年(1891)知三村の大字、昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)おおい町名田庄の大字になりました。



(6)久多川
(おおい町名田庄)

 おおい町名田庄の東部を流れる南川の支流で久田川とも書きます。名田庄の南東隅に位置する

三国岳(標高776m)の北面を水源地として名田庄小倉畑で南川に合流する全長約13㎞の川です。

 途中、出合集落で永谷川を、虫鹿野で虫谷川
(むしだんかわ)を合わせます。上流から下流まで山地に深い谷を刻み、平地はほとんどありません。

 上流の鍋窪谷に沿ってナベクボ峠を越え近江の朽木村に至る道が、また永谷川に沿って佐布峠又は野田畑峠を越えるか、

 虫谷川沿いに杉尾坂を越えて丹波に至る道が通り、往時は京都と若狭を結ぶ交通路を形成していたといいます。

 しかし、残念ながら現在、これらの坂道は途絶えてしまい、峠名だけが辛うじて残っているに過ぎません。



主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県  角川書店
越前・若狭峠のルーツ    上杉喜寿著
越前・若狭山々のルーツ   上杉喜寿著
福井県史通史編3近世一      福井県





このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください